ここへ引っ越してきたとき、屋内を走ったら、まだ粉が残っていて舞い上がったのを思い出す。戦時中は京都大学理学部で核物理を学んでいた父は、敗戦でもう研究は続けられないと考え、下京区に堀場無線研究所を設立した。いまで言う「学生ベンチャー」だ。そこから移転したのが千本三条で、酸度を分析する機器を開発し、独自のビジネス路線を目指す。

「このあたりですかね」と、堀場さんは路地の途中で立ち止まる。事務所があったあたりだ。敷地の奥に、住居があった。事務所から続く工場は平屋で、飽きることのない遊び場だった。ガラスでいろいろな機器をつくっていたから、ガラス細工とともに色とりどりの実験器具が並ぶ。すべてが遊び道具、本当に楽しかった。30人くらいいた従業員たちも相手をしてくれて、自然に「ものづくり」の世界が身近になる。母は会社の仕事を手伝うよりは、従業員らの食事の世話をした。

覚えている市電の色 パンタグラフの型も 憧れた少年時代

 小学校は、父も通った国立京都学芸大学付属で、自宅近くの停車場から路面電車の市電で通学した。30分余り、乗ると必ず運転席の横へいき、ガチャガチャというブレーキの使い方など運転操作をみて、全部、覚えた。一番楽しかったころで、「将来は運転手になりたい」と思ってもいた。

 その車両が置いてある下京区の梅小路公園へもいった。車両を前に、再び「懐かしい」と口にした。「この緑と肌色というか、昔からこの色でしたね。1両だけで、前後から乗り降りできた。最初のころは、こういう平たいパンタグラフではなくて、輪っか型だった」。次々に、思い出す。

 京都の市電が廃止になって、久しい。車内にあった路線図をみながら、言った。

「市内をこれだけ走っていたんですよ、もったいない。残っていたら、すごい遺産になったのにね。何でも近代化したらいいというものではない、と思います。でも、市の財政にとってすごい負担だったのは確かで、人の移動は車に変わっていきましたからね。いまあったら、外国人も乗るでしょう」

 電車の運転手に、本当になりたかった、と言う。東京と大阪を結ぶビジネス特急「こだま」ができて、小学校6年生のときに父に乗せてもらい、「特急の運転手になる」へ変わった。さらに、帰りに飛行機に乗せてもらい、「パイロットになろう」となる。そんな「おもしろおかしく」につながる童心は、いまも変わっていない。

 父が社是にまでした「おもしろおかしく」は、「Joy and Fun」と英訳し、国内外の拠点に掲げている。次は「ほんまもん」を、それらしく英訳するのか。母の精神をうまく伝えることができたら、こちらも世界中で根付くだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2023年9月18日号

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