「大姥局」については、福田千鶴氏によるまとめがあるので(『徳川秀忠』)、それをもとに概略をみておきたい。大永五年(一五二五)生まれで、幼名は「かな」といったという。秀忠誕生時には、五五歳であったことになる。家康が幼少より認知していたというのは、家康が駿府に居住していた時期は、二五歳から三六歳にあたるので、その時に認知していた、というのはありうることではある。「大姥局」としては、天正十八年(一五九〇)から慶長十三年(一六〇八)までの動向が知られていて、また秀忠妾の静(四男保科正之生母)は、「大姥局」の部屋子であったという。慶長十八年正月二十六日に、江戸において八九歳で死去したという。法号を正真院といった。
「大姥局」は、氏真の小田原居住にも同行していたというから、夫の死後は氏真に仕えるようになり、浜松移住にも同行したとみなされよう。そして家康から、秀忠の乳母に付けられたという。ただし乳母といっても、その時に五五歳であったから、乳を与えるのではなく、養育を担う役割としての「乳母」とみなされよう。しかも「柳営婦女伝系」「玉輿記」ともに、「御乳附けとして相勤め、御介抱仰せ付けらる、大姥と呼ぶ」と記している。ここに「御介抱」とあるのが重要で、貞春尼と同じく、後見役を担ったことを意味しているととらえられる。
そうすると「大姥局」は、貞春尼とともに秀忠の養育にあたった存在になる。年齢は「大姥局」のほうが、貞春尼よりも一七歳ほども上であった。しかし身分は、貞春尼が上臈として上位に位置していた。両者は、氏真の駿河没落以降、行動をともにしていた存在になる。そうすると「大姥局」が乳母になったのは、貞春尼の取り立てによると考えたほうが妥当と思われる。もちろん家康も旧知の存在であったため、それを了承したと考えられるであろう。こうしたことからすると、貞春尼は、他にも多くの今川家ゆかりの女性を、徳川家の奥向きの女性家臣として取り立てていたと推測できるように思う。徳川家の奥向きにおいて、貞春尼が担った役割は大きなものがあったとみて間違いなかろう。