徳川秀忠が生まれた浜松城
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 これまで徳川家康は今川家に対して否定的と考えられてきたが、認識をあらためるべきと説くのは、歴史学者・黒田基樹氏だ。家康と武田信玄による侵攻を受けて領国を失い、戦国大名としては没落した今川氏真。かつての主従の立場は逆転するものの、二人は和睦を結び再び交流を続けていた。さらに驚くべきは、今川氏真の妹・貞春尼が、徳川秀忠の女性家老(「上臈」)にして後見役だったという新事実である。貞春尼は徳川家の家政の運営において、極めて重要な立場にあったという。新著『徳川家康と今川氏真』から一部抜粋、再編集し、紹介する。

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 また貞春尼の存在に関連して、秀忠の養育に大きな役割を果たし、晩年まで秀忠に大きな影響力を持っていたとみられている、乳母の「大姥局」について触れておきたい。「大姥局」は、今川家旧臣の岡部与惣兵衛尉貞綱の妹で、同じく今川家旧臣という河村善右衛門(重忠とされる)の妻であったという。夫の河村重忠は、氏真の駿河没落以前に死去していて、彼女はその後、氏真に仕える女房衆になったとみられ、氏真の小田原居住にも同行していたという。そして家康が幼少時から認知していたため、秀忠の乳母に召し出されたという(「柳営婦女伝系」『徳川諸家系譜第一』一五四頁・「玉輿記」『史料徳川夫人伝』三四八頁)。

 ただし「岡部与惣兵衛尉貞綱」という人物は当時の史料で確認できない。文亀二年(一五〇二)生まれで、永禄九年(一五六六)に六五歳で死去したとされる(「柳営婦女伝系」)。しかしそれでは「大姥局」より二三歳も年長になる。あるいは「大姥局」は、正しくは貞綱の娘であったかもしれない。また夫の河村重忠についても当時の史料では確認されない。なお「大姥局」には、弟に長綱があったとされるが、天文十六年(一五四七)生まれとされている。「大姥局」より二二歳も年少になる。これらからすると、それらの系譜関係には検討の余地があるように思う。

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