塩田:この小説の本当の出発点は、ある洋画家との出会いでした。ヤフオクで絵画のオークションをチェックしていたら、“伝説の逃亡画家の作品です”という説明書きが付いた出品物を見つけたんです。調べてみたら人見友紀という実在の人物で、一九七〇年代初頭に窃盗事件に関与して捕まりそうになったところを、妻から「あなた、すぐ逃げて‼」と言われ海外へ逃亡した。そして現地の売れない画家に弟子入りし、ヨーロッパ各地を転々とした後で定住先のギリシャでものすごい人気画家になった人物でした。こんな人がいたんだと驚きましたし、この人をモデルにした話が書きたいなと最初は考えたんです。その企画を提案したところ編集者から海外取材のOKが出て、じゃあ日本と海外を舞台にして……と具体的な構想を練り始めた矢先にコロナ禍に突入し、海外に行けなくなってしまいました。じゃあ、どうするか。逃亡画家の物語に、なくなった海外パートの代わりとなるような要素を組み合わせればいい。その要素が、誘拐でした。
新聞が報道の王様だったのはとうの昔、スマホにより一億総捜査員化した現代社会において、新聞記者だからこそできることとは何か? それは、現場に足を運ぶこと、徹底的に調べること、正確に伝えること。消えた無名画家の消息を辿る門田次郎の行動には、元新聞記者である著者がデビュー作以来書き継いできた、記者の矜持というテーマが宿っている。
塩田:記者の門田は、残された写実画に描かれている風景を特定することで、無名の画家の足跡を辿っていきます。ミステリーの要素として取り入れたその展開は、写実画の風景画を自分で実際に買ってみて、部屋でじっと眺めていた時に思い付きました。ひょっとしたら、松本清張の『絵はがきの少女』という短編が潜在的な刺激となっていたかもしれません。その小説の主人公も新聞記者なんですが、子供の頃から大事に持っている絵はがきに写ってる女の子が魅力的で、その場所に行って、その子がどういう人生を歩んだかを実際に調べるんです。この小説の中でも何箇所か、清張の名前を出しています。連載誌となった「週刊朝日」は、松本清張を世に出した媒体です。その媒体で連載するんだという意識も働いてはいましたが、清張の存在は年々、僕の中で大きくなっていくのを感じていますね。