30代の米国勤務も楽しむ(写真:本人提供)

米国勤務から帰り課長として手がけたNAS電池の開発

 80年春に入社。工場の生産設備の設計を担当し、ディーゼル車の排気に含まれる粒子状物質の除去フィルターの量産設備を開発した。入社3年目から約5年は、高い強度と適度な弾性がバネに適したベリリウム銅の鋳造圧延工場をつくるプロジェクトにいた。その後、米企業から買収したペンシルベニア州のベリリウム銅工場へ赴任し、設備更新を任される。91年1月に帰国し、翌年に課長に昇格した。

 ここで、NAS電池と出合った。日本ガイシは名古屋市にドイツ企業と合弁会社をつくり、自動車用の小型NAS電池の技術を導入。縦長の円筒形電池を並べて高い出力を得るモジュール化に、取り組んでいた。その開発を託される。NAS電池は70年代から先進各国で研究開発が始まったが、実用化の難しさから相次いで撤退。事業化まで続けたのは、碍子由来のセラミックス技術を活かした日本ガイシだけだった。

 2001年、常務会でNAS電池の事業化が決定される。東京都の下水道局が江戸川区の下水処理場に小型NAS電池を採用し、12月に稼働した。需要の拡大を見込み、愛知県小牧市にNAS電池の工場を建設し、単電池とモジュールの量産を始めた。事業部長に昇格し、都市部だけでなく、電気をためたい離島や海外への供給も続く。

 冒頭の火災事故はあったが、「絶対に撤退しない」と公言した。2014年6月に社長になってからも、2021年4月に会長になっても、同じだ。改善とコストダウンは永遠の課題だが、「会社にとって大切な存在だ」との夢は、揺らがない。

 いまも、夢を『源流』からの流れが押し続けている。(ジャーナリスト/街風隆雄)

AERA 2023年8月28日号