地元の小学校へ通い、近くのサレジオ神学院で始まったボーイスカウトへ参加。夕方まで家族がいない自宅よりも、新たな経験が積めそうな場で過ごす。子どものころから工作好きで、仲間が胸に付けるワッペンをつくってあげる。教会の敷地や奥多摩でキャンプなどを体験するなか、役割分担と自立心を学んでいく。5年生のときにサッカーをしていた先輩たちに入れてもらい、調布中学校と都立国立高校でもサッカー部。ボールさばきが得意でフォワードだ。ここでも、同様の学びを重ねた。

 76年4月に東京工業大学へ進み、生産機械工学科で学ぶ。日野市へ移っていた実家から通ったので、何をしていても食事の心配がない。でも、地方の高校からきて下宿していた同級生らは、親から仕送りがあっても、遊ぶことはもちろん食べるのにも苦労していた。そんな姿をみて「就職で親元を離れないと、自立できない」と思っていた。

 指導を受けた教授が研究に使う材料で日本碍子(現・日本ガイシ)と縁があり、「世界一と言える技術がある」と紹介してくれた。東京を出て1人で暮らすのにいいと思って、就職先に選ぶ。父は、頷いた。母も黙って、本社がある名古屋へ向かう身を見送ってくれた。

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