「このすぐ先の桑畑で私の妹が殺されたんです」

 運転手は泣いていた。ハンドルを握ったままの姿勢で40分近く、動くことはなかった。

 戦争の傷跡を間近で目にした野中さんは言葉を失い、ただ胸を痛めることしかできなかったという。

「そのとき、運転手さんが話してくれたんです。妹さんを死に至らしめたのは米軍ではなく、日本軍だったと」

 それが野中さんにとっての沖縄の原風景である。

 だから国会議員になってからも沖縄通いを続けた。政治的な立場を超えて、さまざまな人から話を聞いた。米軍が何か問題を起こしたときには、頭を下げて回った。

 97年、久米島近くで米軍が劣化ウラン弾を処理したことが発覚した。米軍は、その事実を2年も経過してから日本に伝えてきた。政府はさらに、その1年後に沖縄へ伝えた。「ないがしろにされている」と沖縄県民の多くが憤った。

 野中さんは沖縄に飛んだ。多くの記者が見ている前で、大田昌秀知事(当時)に謝った。

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私自身、怖くなったのかもしれない