第2次大戦中、1944年のマリアナ海戦で日本軍は大敗北を喫した。これによってサイパン、テニアン、グアムが米軍に奪われ、同時期、古賀さんの父親はフィリピンのレイテ島で戦死している。
「ここで戦争を終わらせるべきだった」と古賀さんは言う。しかし、政権も軍部も「本土決戦」を主張し、さらに戦争を続けた。
そのことによって沖縄では県民の4人に1人が命を落とす地上戦がおこなわれ、広島と長崎でも原爆によって大勢の命が奪われた。
「勇ましいことが、威勢のよさが、強気であることが、人を救うわけではありません。日本は戦争でそれを学んだはずです。失敗を繰り返さない、忘れない、そのことを犠牲となった方々の前で誓うためにも、慰霊の日(6月23 日)には欠かさず沖縄を訪ね、手を合わせるんです」
古賀さんの静かな口調から伝わってくるのは、嬉々として“愛国”の道を走る、「勇ましい」政府・自民党への危惧と懐疑だった。
そして、終戦時の記憶を振り返る。
自宅に白木の箱が届いたのは終戦から間もない時期だった。なかには父親がフィリピン・レイテ島で戦死したことを伝える紙片だけが入っていた。空っぽの箱。それが父親を連想させる幼少期の唯一の記憶となった。