大会開幕後の同13日、雑誌側から事実確認の取材を受け、事件を知った同校は、大会本部に報告するとともに、翌14日の2回戦、東海大甲府戦に出場予定だった2選手の登録抹消と野球部長の辞任の措置を取った。大会本部は享栄側の申し出を了承し、出場を認めたが、選手の補充は認められず、13人(当時は15人がベンチ入り)で試合に臨むことになった。
柴垣旭延監督から事件のあらましを聞かされたナインは動揺し、強気の性格で知られる近藤も「負けるんじゃないっスか」と弱気になった。
だが、6回に1点を先制される苦しい展開も、7、8回にタイムリーで1点ずつを挙げ、2対1と逆転勝ち。
試合後、柴垣監督は目を真っ赤にしながら、「勝つことで償いをしようと思っていました。キビキビとした恥ずかしくない試合をするのがお詫びのしるしだ、と自分に言い聞かせていました。動揺はあったが、よく守り、よく打ってくれた」とナインの健闘をたたえていた。
翌87年には、宿舎で監督がバットで選手を殴打する暴力事件が起きた。
19年ぶりに夏の甲子園に出場した佐賀工は、初戦(2回戦)の東海大甲府戦で、本格派右腕・江口孝義(元ダイエー)が、尽誠学園・伊良部秀輝(元ロッテ、阪神など)と並ぶ初速146キロ(「報知高校野球」調べ)を計測。4安打9奪三振1失点の快投で、強打が売りの“東の横綱”を力でねじ伏せた。
敗れた東海大甲府・大八木治監督は「今まで見た中で一番速い投手」と脱帽し、ネット裏のスカウトの評価もうなぎ上りだった。
ところが、3回戦の習志野戦では、江口は別人のように球威を欠き、3回5失点。「もう投げたくありません」と自ら降板し、ベンチに引き揚げてしまった。試合も4対12と大敗。スタンドのファンも「何かあったのだろうか?」と首を捻った。
そして、大会終了後の8月22日、江口を含む7選手が神戸市内の宿舎で監督からバットで殴打されていた事件が明るみになる。
習志野戦の2日前の8月16日午後11時ごろ、選手たちが部屋で談笑していると、監督が「いつまで起きているのか」と注意し、金属バットの柄で7人の頭部を殴打した。