母は父が亡くなった後、貯蓄機関で窓口業務に就いた。毎日、最後に現金の残高を手で数え、帳簿と1円でも合わなければ数え直した時代。たびたび、帰宅が遅くなった。そういうときは、おなかをすかして待っていた。住吉高校を後にするとき、そんなことが浮かんだ。

10万回の声かけその地で気づく思い入れの強さ

『源流Again』では車で移動し、奈良市の近鉄奈良線・学園前駅へもいった。1996年9月から、駅舎の改築を工事事務所の所長として指揮した。42歳。50代が普通の所長を、異例の若さで任される。

 地域住民が駅の南北を行き来できる通路をつくり、商業施設も併設。傾斜のある土地で、難工事だった。

 入社以来、関西圏で高速道路のトンネルや地下鉄など、いくつもの工事現場を経験した。現場には、作業を請け負った協力会社の職人が多い。彼らが安全な作業をしているかどうかの確認には、コミュニケーションの深さが欠かせない。

 完成するまでの3年、毎朝、朝礼に集まってくる100人の職人たちに「おはよう」と呼びかけた。短い言葉でも、強い思いがある。「頼むぞ、無事故・無災害で仕上げてくれよ」。それを、100人とのアイコンタクトに込めた。相手が100人なら1日に100回、年間で3万回以上、3年間で約10万回になる。

 母の無言の目から思いを酌んだ日々を受け、サッカーで磨いた目力は、役立った。大きな事故もなく、完成させる。

 朝礼をしたプレハブ事務所を建てた借地へいくと、駐車場になっていた。「おはよう」と声をかけ続けたところに立ってみると、強い思い入れがある自分に気づく。久々にきて、本当に懐かしい。10代前半で『黒部の太陽』を読んで「でっかいものを造る」に憧れ、実際にやってみると、描いていた以上に楽しく面白い。そう、言い切れる。

 生い立ちも会社も違う人が集まって、一つのものを完成へ向けて一丸となるには、コミュニケーションができて初めていいものに仕上がる。同僚、先輩、上司、部下から刺激を受け、成長していくなかでプロジェクトが完成を迎える達成感が、自分たちの仕事のかけがえのない喜びだ。それを、みんなで共有したい。そんな思いも、蘇る。

 いま、業界を取り巻く環境は激変の時代で、いかに変化を先取りしていくかが勝負だ。

 大林組は、カーボンニュートラルが大きな論点になる前から「持続ある社会の実現に貢献する」との理念を打ち出した。2018年3月に社長になり、それを受け継いだ。どれだけ貢献できるかを具体化し、グループ全員が自分のこととして関わり、喜びや働きがいになってほしい。

 道半ばだが、思いを言葉にしなくてもいい姿へ、持っていく。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2023年8月7日号