近鉄・学園前の駅舎は南北の斜面の上にあり、高低差は1階分。3年にわたる改築工事をこの南側で重ねた。作業員への声かけで、無事に乗り切った(撮影/狩野喜彦)
この記事の写真をすべて見る

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年8月7日号では、前号に引き続き大林組・蓮輪賢治社長が登場し、蓮輪さんの通っていた大阪学芸大学附属平野中学校(現・大阪教育大学附属平野中学校)や住吉高校などを訪れた。

【この記事の写真をもっと見る】

*  *  *

 小学校4年生だった1964年2月、旅行代理店に勤めていた父が大分県で、飛行機事故で急死した。以降、仕事に就いて自分と弟を育ててくれた母は、いろいろ苦労をしただろう。でも、そんなことは、一度も口にしない。7歳下の弟の「父親代わり」の役も、母に言われたからではなく、目に表れていた思いを感じ取ったから、やった。

 中学校と高校の部活で、サッカーを続けた。広いグラウンドで、離れたところにいる選手同士が、次のプレーへの意図を声に出さずに知らせ合う「アイコンタクト」。ここでも、何を伝えたいのか、言葉にはしなくても目が合えば、互いに分かった。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

 蓮輪賢治さんのビジネスパーソンとしての『源流』は、母と過ごし、サッカーに打ち込んだ日々にある。人と話すとき、相手の目をみて語る。ほとんど、視線を外さない。それが10代のころに身につき、社長になったいまも続いている。

 サッカーを本格的に始めた大阪学芸大学附属平野中学校(現・大阪教育大学附属平野中学校)を、この6月、連載の企画で一緒に訪ねた。五十数年ぶりだ。その前に通った附属小学校も、道路を挟んだ向かい側にある。

中学で読んだ『黒部の太陽』で生まれた夢

 この小学校の3年生ごろ、エジソンやキュリー夫人など伝記本を読み始めた。父が亡くなった後は戦記物となり、『戦艦大和』も読んだ。中学校にかけては、日本が戦後に世界一のタンカー「日章丸」を建造したことを紹介する産業物へ変わり、『黒部の太陽』も手にした。そこから「でっかいものを造ってみたい」との夢が、生まれる。

次のページ