住吉高校の50年前の正門は通用門に変わり、校舎も改築された。でも、向かいの運動施設は昔のまま。サッカーに打ち込む自分が浮かぶ(撮影/狩野喜彦)

 中学校へ入ったときはサッカー部がなかったが、上級生から声がかかり、一緒に創部した。サッカーで学んだのは、チームワークの重要さと個々が果たすべき役割だ。勝つためには得点が不可欠で、シュートを放つ選手が要る。失点を防ぐのに守備役も大事だし、負けているときに流れを変えるムードメーカーもほしい。振り返れば、いずれも組織の運営に通じる。

 附属中学校を訪れる前に、大阪市阿倍野区にある母校の住吉高校へもいった。1953年11月に生まれた実家から近く、阪堺電気軌道上町線の北畠駅で降りる。電車が旧野街道の路面を走っている区間で、通学していたころは車掌が鳴らす音から「チンチン電車」と呼んだ。

 駅から路地へ入ると、すぐ左手に高校がみえてくる。校舎は建て直されていて、「全く変わってしまった」とつぶやく。でも、道路を挟んだ向かい側の風景は、以前と同じだ。「ここにテニスコートがあり、プールもあって、向こうに野球場。雰囲気は、在学中と変わっていないですね」と、顔がほころんだ。

授業を抜け早弁 校長は笑って「いまなら指導」

 校舎を眺めていたら、中山玲代校長に会った。挨拶を交わして「いまの1年生が何期ですか?」と尋ねると、78期生だ、と言う。自分は24期生。54年もたっていることを、あらためて確認する。サッカーの話になって「4時間目になると授業を抜け出し、早弁を食べて昼休みもサッカーでした。いまなら……」と言うと、校長は即座に「指導です」と笑った。温かい校風が守られていると思って「高校に育てられました」と話すと、「うれしいです。素晴らしい先輩で」と応じてくれた。

 大学受験は「でっかいものを造ってみたい」との思いから、大阪大学工学部の土木工学科を受けた。でも、サッカー三昧の高校生活で勉強はいま一つだったから不合格。ただ、試験に度胸をつけようと受けてみた私立大学は、合格した。

 入学金が30万円か40万円で、母に「納めなくていい。来年、国立の阪大に入れば、そんなにおカネは要らない」と言った。でも、母は高校の成績からみて「来年も何があるか分からないから」と、納めてしまう。

 それで珍しく親子喧嘩になったが、これが母にいちばん心配をかけたことだったかもしれない。

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