校則に反して殴られる ルールは自分の敵だった
甲斐(かい)あって、昨年12月には主に旧統一教会の被害者を想定した不当寄付勧誘防止法(法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律)が可決・成立。直ちに施行された。宗教法人法にある「質問権」を今回初めて、この7月までに7度も行使したのは文化庁だ。このような集団と結託してきた自民党の岸田文雄総裁が、それでも安倍銃撃事件を機に、「一切の関係を絶つ」と宣言した事実は重い、はずである。
とはいえ安倍の死から1年以上が経過してなお、解散命令請求はなされていない。マスコミ報道も激減した。私たちはまたしても、例によって「何もなかったこと」にされようとしているのか。
疑い深い筆者に、しかし、紀藤は言い切った。慎重に、言葉を選びつつ。
「岸田さんは本気ですよ。断絶発言で助かりましたと言う若手が大勢いる。先輩議員の紹介だと言われると断りにくいところを、はっきり基準が示されたのでありがたい、と。彼らも関係省庁の官僚たちも、水面下で動いています。われわれ弁護団の、統一教会との直接交渉だって進んでいる。ただ、この問題は一筋縄ではいかないのです。ややこしい要素が複雑に絡み合っていますから」
旧統一教会との闘いは、一生懸命な人々の敗北の歴史なんです、とも紀藤は語った。彼の弁護士登録は1990年。霊感商法やインチキ募金も、はるか以前から猛威を振るっており、それらによる家族の被害も、絶えることがないままでいた。
「だから当初は、相談を受けるたびに、先人たちはなぜ1980年代までに解決できなかったのかと憤っていました。それから30年以上が過ぎ、僕は今の若い人たちに非難される側に立っている。
何もやっていないわけじゃない。でも被害はなくならず、あの頃は子どもか青春の真っ盛りだった宗教2世たちを救えなかった。もう60歳近くになった人もいます。われわれの力不足ばかりではないにせよ、やっぱり、やるべきことをやっていなかったということになるのだと思う」
紀藤が重ねてきた仕事を顧みれば、あり得ないほど謙虚な、かつ、裏返せば司法というものの力を確信した名言ではあるまいか。
紀藤は1960年に山口県宇部市で生まれた。ローカル紙「宇部時報」(現、宇部日報)の創業者で、戦前戦中に宇部市長を務めた紀藤閑之介(1869~1961)の従甥(いとこおい)である。
人権弁護士を目指したのは、「校則が嫌いだったこと」が始まりだった。丸刈りが決まりだった中学校時代、少し髪の毛が伸びた時に、風紀係の教師に「明日までに切ってこい」と命じられ、「明日までは難しいです」と返して、殴られた。