タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。
* * *
身近な人を亡くしたときに「ああ、自分はこの人を何も知らなかった」と気づいた経験はないですか。生前はよく知っているつもりだったのに、亡くなってから改めて、自分はその人の人生のごく一部しか触れたことがなく、その人が考えていたことをほとんど知ることがなかったのだと気づくのです。私にも経験があります。父が亡くなってから日が経つほどに、その思いは強くなります。同時に今、私は亡くなっている父との新しい関係を築きつつあります。生前の父ではなく、亡くなっている父という新たに知り合った人との関係を生きているのです。もちろん、記憶を元に私が勝手に父に話しかけたり思ったりしているのですから、妄想に過ぎません。もしかしたら、生きているときにも父をそのようにしか見ていなかったのではないかと悔やまれます。目の前に相手の体があったって、人はつい、脳内に作り上げた相手のイメージとの関係ばかり見てしまうのです。友達や家族に「そんな人だと思わなかった」などと言われて「あなたに私の何がわかるのか」と思ったことのある人もいるでしょう。どれほど近くにいても、たくさん言葉を交わしても、相手を知るのは難しいものですね。
ましてメディアで見かけるだけの人のことは、いくらネットで記事を読み込もうと、わかるはずがありません。生身のその人の暮らしのひとかけらだって知らないのだから。ああかもこうかもと頭の中で臆測を巡らせる前に、自分が何も知らないことを思い出せば、言葉を慎む気持ちにもなろうものを。
夏は、亡くなった人びととともに過ごす季節です。私はあなたを知らない、最後まで知らなかった。けれどもあなたが生きていたことを懐かしく思う。あなたが生きた月日が確かにあったことを忘れませんと、静かに手を合わせる時間を大切にしたいです。
◎小島慶子(こじま・けいこ)/エッセイスト。1972年生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『幸せな結婚』(新潮社)。寄付サイト「ひとりじゃないよPJ」呼びかけ人。
※AERA 2023年7月31日号