■上場直前に鳥インフル うどん業態が会社を救う
活路を開いたのは、ハシゴ客や水商売の人たちを当て込んだ深夜営業だった。午前に軽トラックで材料の調達に走り回り、昼からは店でひたすら仕込み。そこから明け方まで焼鳥を焼いて接客をする。「とにかく目の前のお客さまに、また店に来ていただきたい」。その一心で、どんなに合わない相手でも、愛想よくおしゃべりにつきあった。
体力と気力勝負の中で、店には徐々に客が付くようになり、次に、当時はニッチだった女性客に向けて、カクテル類を充実させた「洋風焼鳥酒場」へと改装を行った。これが当たり、91年に念願の3号店が実現。勢いは止まらず、97年には兵庫圏内で8号店まで店舗を拡大した。
傍目には快進撃に映っていたが、途上には、いつでも思わぬ事態が待っていた。95年には阪神・淡路大震災があり、消費は一気に翳(かげ)る。女性向けの洋風焼鳥酒場は、後追いの競合店が続出して失速。そうかと思えば、郊外のファミレス跡を居抜きで借りて作ったファミリー向けの焼鳥居酒屋が大ヒット。
いい時、悪い時をジグザグとめぐる中で、小心者でウジウジと考える自分と、そこを突き抜けたら誰よりも大胆に勝負に出る自分という二極を、粟田自身が行ったり来たりしていた。
当初、粟田の妻と近所のパート女性で経理や労務を回していた家内制の事業は、95年に株式会社化。経営のノウハウが身に付いた頃合いにITバブルの時代がやってきた。
「上場すれば大金が入る。資金ができれば、もっといい店作りができる」
それを動機に上場コンサルタントを雇い、経理、総務、人事、経営企画と社内の体制を必死になって整えた。だが2004年、東証マザーズに上場目前のタイミングで、今度は鳥インフルエンザに見舞われた。焼鳥店の売り上げは激減。組織整備に費やした時間と資金へのダメージは甚大で、目の前が真っ暗になったが、いったん、すべてをあきらめるしかなかった。
しかし、このどん底こそが、粟田の事業にとって真の転機になったのである。
上場の準備に奔走していた2000年前後。次の展開を模索していた粟田の頭の中に、どうしても気になる光景があった。父の故郷、香川県に根付いていたうどん製麺所のそれだ。