渋谷ソラスタの19階、代官山の街並みを眼下に見下ろすガラス張りの社長室で、粟田は気さくな雰囲気はそのまま、「もっと上」に対する漲(みなぎ)る意志を語った。
いつ、どんな時も、どんな人に対しても態度が変わらない。今も昔も変わらない。取材の中で、そのような粟田評を、多くの人から聞いた。
語り口は饒舌(じょうぜつ)、聞き手としても一流で、関わる相手から次々と話を引き出していく。興が乗ると饒舌に拍車がかかり、周囲は笑いに包まれる。
しかし、そんな粟田節を繰り出しながら、肝心なところは決して明かさない用心深さが、その目の奥には流れている。本人が取材で漏らした自己像は、「基本は無口。これといった趣味もない。家では普通のおっさん」という、周囲のとらえ方とは距離を置いたものだった。「そんな人間がエラそうにした瞬間に、成功は逃げていきます」とも言った。
徒手空拳の身で20代から飲食業に取り組み、行っては戻りを繰り返してきた。その経験が、気さくでありながら老練、軽やかでありながら貪欲という二律となって、粟田の中に経営者の人格を作っている。
物語は1985年、バブル前夜に兵庫県のJR加古川駅前に開いた8坪の焼鳥店から始まった。
神戸の警察官家庭に生まれた次男で、高校卒業時には自身も警察官の採用試験に受かっていた。しかし、敷かれたレールがしっくり来ずに、神戸市外国語大学の夜間部に入学。喫茶店でアルバイトをしている時に、飲食店の面白さに目覚めた。雑誌のサクセス特集に載っていた洋菓子店の社長が、芦屋の高台にある邸宅に住む様子を見て、「これや!」と意志が固まった。
大学を1年で中退して、トラック運転手の仕事で初期資金800万円を作った。いざ出店の際に、喫茶店から焼鳥店に業態を変えたのは、運転手時代に通っていた焼鳥屋台の雰囲気に心が動かされたからだ。深夜、焼鳥を味わいながら、若い店主とよもやま話をする時間は、疲れた心身をじんわりと癒やしてくれるものだった。
23歳で初めて持った店の名前は「トリドール三番館」。一生のうちに3店舗は出したいという思いが、そこに込められていた。
現実は厳しかった。近くに焼鳥の老舗があったこともあり、粟田の店は連日、閑古鳥が鳴く状態。時代が好景気に突入して、はしゃいだ空気が街に広がる中で一人、自分だけは取り残されている。悶々(もんもん)とした思いを抱きながら、「お客さまとは来ないもの。来ない人に来ていただくことが、どんなに大事なことか」という、商売人の覚悟を身に刻んだ。