――なるほど。それで、「かわいい」に取り組んだ。
「かわいい」っていうのは日本ではB級グルメ的にとらえられますけど、世界ではもっと価値があるって認められている。日本がもっと自国発の「かわいい」という価値を正当に評価して、それで日本という国をもっと発展させていければいい。「かわいい」を愛でる人は戦争をしないと思うし、「かわいい」という感性価値が世界中にもっと広がれば、より良い世の中にできるんじゃないかなと思って、それで「かわいい」を軸に研究を始めよう、というようなことを50歳を過ぎてからいろいろ考えたわけです。
――そうすると、感性工学を専門とするようになったのは50歳以降ですか?
そうなりますね。芝浦工大の教授になったのが45歳のときで、それまでのキャリアとしては子育てしながらシステムエンジニア(SE)として仕事をしていた期間が長かった。
私が大学4年生の年が国際婦人年でした。公務員試験を受けて1次に通ったら、何人もの人から電話がかかってきて「ぜひ通商産業省(現・経済産業省)に来てくれ」って言われた。もし大学院の試験に受からなかったら、通産省に行っていたと思います。
――研究者を目指していたわけではないんですね。
そうですね。私の父は証券会社のサラリーマンで、1960年代当時、証券会社にコンピューターを入れることになったとき、米国に短期出張してIBMの説明を聞いてきた。そうしたら途端に「これからはコンピューターだぞ!」って言い出した。
うちは父も母も大学を出ていません。だから、わが子が、ましてや女の子が東大受験するなんて思ってもいなくて、父は「優秀な秘書さんの出身女子大以外は受けることを許さない」なんて言っていた。母も親戚から「東大に行ったらお嫁にいけなくなる」と言われた。ただ、中学から東京教育大学(現・筑波大学)の附属に入り、周りのみんなが東大を目指していたので、私も理I(工学部・理学部進学コース)を受けたら合格した。
理学部数学科に行きたいと思っていたんですけど、大学に入ってから数学で落ちこぼれました。計数工学科はコンピューターをやっていると知り、父が言っていたことが頭にあって進学を決めた。たった1人の女子だった私の就職のことは、本人よりむしろ先生がたや事務室の皆さんが心配していろいろ動いてくださった。SEになりたくないとわがままを言っていたので。