いじめ事件が起きると「いじめたやつの親はどういう教育してたんだ」という話題が激しく燃え上がった後、反動のように「でも自殺したやつ本人および家庭もけっこう変わってたし」的な話が広がり、そのうち人びとは飽きてしまう、という繰り返しである。
そういう人にとってこの本は面白くないだろう。いじめ事件の当事者が、問題と真剣に向き合うと、溜飲の下がる(誰かを断罪して一件落着みたいな)結論なんかにはならないからだ。
著者は、大津いじめ事件があった大津市の市長である。就任前に起きた事件だが、市内の公立中学で起きた事件だからまさに当事者である。
いじめ事件への対策は、ごく当たり前のことだ。調査のやり直しを命じること、情報の開示、第三者調査委員会の設置。しかしこれらを実行しようとする時に、大きな抵抗に遭う。抵抗するほうにも大義名分があって、主に「どこかへの配慮」なわけだが、それがもやもやとはっきりしない。
その勢力との攻防戦は描かれていない。というのも、そんなもやもやな勢力は、理を通せば後退するからだ。そんなことよりも、これから学校内のいじめをどのように少なくすればいいのか、ということだけにしか市長の興味はない。それは正しい。
途中で、市長の生い立ちの話が出てきて、よくある途中から「いい気な自伝」になるかと不安になったが、その生い立ちの話は、自身のいじめられ体験、および「いじめが蔓延するシステム」を読者にわかりやすく説明する機能も果たしているから、必要だった。小学三年生の頃、自分の知らない交換日記がグループ間で回され、ある日、こっそりノートを覗くとそこには「死ね」と書かれていた。「いじめられた経験が、いじめ問題に強い意志を持って取り組む礎」となっていると書く。
越市長だけでなく、誰もがこの問題を真面目に考えなければいけない。
※週刊朝日 2015年3月13日号