渡辺美奈代(撮影/門間新弥)
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)

 渡辺は、社長について東京へ行くことを決意したという。

「あいさつ回りがひと通り終わった後、帰り際にソニーのスカウトの方とお会いしました。すると次の日、ソニーの方から『おニャン子のオーディションがあるんですが、受けてみませんか』というお話を頂いたんです。せっかくなのでチャレンジのつもりで受けたら、それからは本当にあれよあれよという感じで話が進んでいきました」

 当時、渡辺はまだ高校1年生。地元の愛知と東京を何度か往復し、翌年春から堀越学園高校に1年生として転入した。つまり、高校1年を2度繰り返すことになったのだ。

「愛知県の高校では学校やスクールバスのポスターのモデルをやっていたんです。そのため急に辞めることはできず、地元の高校を自主退学し、堀越高校に1年から入ったという経緯なんです」

 おニャン子クラブは85年7月にデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」を発売すると、たちまち大ヒットして、社会現象となった。渡辺がおニャン子の一員になったのは、同年11月頃。追加メンバーの1人だった。

 住まいはソニーの社員寮に引っ越した。やはり、ソニーにスカウトされた国生さゆり、河合その子らも入れ代わり立ち代わり、同じ寮に入ったという。

「すごくきれいな寮でした。6畳のワンルームのお部屋だったかな。城之内早苗ちゃんが先に寮に入っていたのは覚えています。お風呂は、とても大きな共同風呂でね。冷蔵庫に入っているドリンクには寮生の名前が書かれていて、寮母さんが常に私の名前の書いたドリンクを2本入れておいてくれた。寮母さんは御夫婦で住んでいたんですが、寮を出てからも、しばらく年賀状のやりとりをしていました。すごくかわいがって頂いたことを今でも覚えています」

 渡辺が寮にいたのは1~2カ月間だったという。事務所が用意したマンションが決まると寮を出た。

「昔の芸能界では、未成年のタレントは事務所の社長さんのご自宅に住むというのが普通でした。社長が親代わりだったんですね。でも、私の場合は東京には親戚がおらず、まだ16歳だったということもあって、4つ上の姉が親代わりということで、姉と2人で住むことになりました。そのマンションは2LDKくらいで、フジテレビのプロデューサーさんのご両親がオーナーでした」

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