最初に『街と─』を読んで感じたのは、『世界の─』と同様に壁に囲まれた街の話と、現実の話が交互に続いていく構造自体は同じだが、まったく違う印象だったこと。
たとえば物語の後半に登場する駅前のコーヒーショップの店主の女性。かつての村上さんだったらば、この人が物語の導線自体にひと波乱おこしてその構造を変えるっていう感じになったのではないかと思う。
ところが、この作品では、彼女とも寝ることはないし、物語の構造自体を彼女が変えることはない。
それが、いいか、悪いかは人によって評価が分かれるだろう。静謐な世界の祈りのようなものが好きな人には、よい小説だと思うし、刺激をもとめて違う世界に行きたいと思っている人にとっては、少々物足りなく感じる。
一方で『世界の─』でくっきり印象を残すのは、主人公と一緒に、地底にうごめく「やみくろ」や「記号士」たちの追跡をかわしながら、地上への逃避行を続ける博士の孫娘だ。この17歳の太った娘は、ピンクのスーツにピンクのハイヒールという出で立ちで、後にはピンクのブラジャーとピンクのパンティーを身にまとっていたことがわかる。このピンクの娘を書いている村上さんの健全な性欲が感じられる様々な描写がある。
『街と─』が水墨画の幽冥の世界とすれば、『世界の─』はそこに一閃ピンクの絵の具を垂らしたような生命感がある。
村上さんの本の中でも、私が実は一番好きなのが『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』。
この本の中で、村上さんは、フィッツジェラルドの『夜はやさし』という作品についてふたつのバージョンがあるという話を書いている。
『グレート・ギャツビー』のあとに自信をもって出した『夜はやさし』は商業的にまったく成功しなかった。ショックをうけたフィッツジェラルドはしかし、その理由を表現上の問題に求め、再版にむけて書き直し始める。フィッツジェラルドは晩年生活に追われていたため、自らの手でその改編を完成させることはできなかった。