赤絨毯の上で古典を読む
わたしは九年前、東京から長崎・諫早に飛んだ。肌寒い四月、小雨のなか、地方都市のけちな汚職事件があって、贈賄側の建築事務所で立ち尽くす仕事を言いつけられた。警察が踏み込むのを待っているわけだが、五十歳を過ぎてそんな仕事をするとは思ってもいなかった。
仮に警察が踏み込んだとしても、外から写真を撮っておしまいだ。それが新聞にでかでか載ることもない。他社の記者もいるから、保険をかけてそこにいるというだけの仕事。ブルシット・ジョブ。
このときわたしは、たしかチェーホフの英語訳を持っていて、傘を片手に読んでいた。寸暇を惜しんで勉強する、というのとは少し違う。さきの三浦さんの言葉にわたしが嗅ぎ取ったのは、むしろ反骨、プライド、鼻っ柱の強さだ。
自分はたしかに、国会の赤絨毯で政治家が出てくるのを待っている三下奴かもしれない。ブルシット・ジョブで、雨に打たれている中年男かもしれない。しかし、ふんぞり返って出てくる政治家にあからさまに見下され、警察に邪魔にされ、ネット民に「マスゴミ」と蔑視されるような人間であることを、自分は自分に許さない。
自分は本に没頭している。本の世界に入り込んでいる。人間存在を、世界を、宇宙のことを考えている。
世の中に邪魔にされ、うちひしがれ、消え入りそうになったとき。本を広げる。べつに読んでいない。ふりしてるだけ。でも、ちょっと、プライドを取り戻す。だから「かんたん」読書。
だれも、わたしの頭の中に手を突っ込むことはできない。