ここから雅子さまの「つらさ」を書く。雅子さまに心を寄せてきた女性たちの話でもある。
大きなプレッシャー
結婚から10年たった03年12月。雅子さまは帯状疱疹(ほうしん)で入院、休養に入った。翌年1月、お気持ちを表す文書が発表された。
<十年余前の結婚以来、慣れない環境の中での大きなプレッシャーのもとで、これまで私なりに一所懸命努力してきたつもりでございましたが、その間の心身の疲労が蓄積されていたことの結果であったのではないかと感じます>とあった。「大きなプレッシャー」について、それ以上の説明はなかった。
説明したのは皇太子さま(当時。現在の天皇陛下、以下略)だ。「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動き」があったと、4カ月後に語った。衝撃的だが、唐突。そういう感じを得た国民も少なくなかったと思う。
なぜなら01年12月に愛子さまが生まれ、翌年4月の会見で「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」と涙を見せた。隣で雅子さまの背中をとんとんと叩き、励ます皇太子さまの優しさが印象的だった。1歳の誕生日の文書で、<あたたかく陽のさす庭に抱きいでてあどけなく笑ふ吾子の重たさ>と歌も披露。その1年余り後の「人格否定」に理解が追いつかない。そんな国民も少なくなかったと記憶する。
だが、「人格否定」が明かされるずっと前から、雅子さまを心配する女性たちが確かにいたのだ。その思いが表に出たきっかけは1999年12月、朝日新聞の「懐妊の兆候」報道だった。雅子さまの36歳の誕生日翌日に報じられると、他メディアも一斉に追いかけ、お祝いムードになった。そこで全く別の反応をしたのが、「均等法第1世代」をはじめとする女性たちだった。
「アエラ」は12月20日号で「雅子さま懐妊への眼差(まなざ)し」という記事を掲載、同世代女性たちの思いを集めた。表現は少しずつ違ったが、みな「違和感」を口にしていた。志を持って皇室に入った雅子さまだったが、結局のところ期待されたのは出産。そのことへの違和感だった。
均等法世代の女性たちは、所属した組織に傷ついていた。均等だったのは雇用機会のみで、入ってみれば変わらぬ男社会。そのことへの葛藤を背景に、彼女たちは雅子さまに自分を重ねていた。そして12月30日、雅子さまの「流産」が宮内庁から発表された。