沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。
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「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」
岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。
1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。
「俺はジュリーには勝てない」
萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。
萩原は電話口で岸部に言った。
「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」
萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。
「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」
PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。
その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。
テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。