学習指導ともかぶるのだが、私は意外に「提出物を先生に言われた期限までに出す」という生活習慣が、すべての大人に計り知れない影響を与えているように思う。
だから、日本人は基本的にちゃんとしている人が多いのだ。
以上から、「学校とは、習慣をつける装置」だとした。
これが、一番シンプルな定義だ。しかし習慣には、他人の悪口を言うとか盗み癖とか「悪い」習慣もあるので、「良い」を加え、「学校とは、良い習慣をつける装置」だ、と改善した。
しかし、これではシンプルなのはいいが、家庭だってそうだし、コミュニティもそうだし、会社だってそうだと言われてしまう。だから、何の習慣か「What?」の問いに答えるために、習慣の中身にも言及すれば、
「学校とは、良い学習習慣と生活習慣をつける装置」
ということになるだろう。小学校低学年では生活習慣の比重がまだ高いが、次第に学習習慣に重みを移していき、高校の高学年までには、ほぼ学習習慣づけにシフトしていく流れである。
学校では、実際、学習指導と生活指導(中高校の場合は生徒指導)について、通常の授業とは別に教員が役割分担し、雑務に取り組んでいる。教務部と生活指導部(中高校は生徒指導部)があり、そのリーダーとして教務主任(高校は教務部長)と生活指導主任(高校は生徒指導部長)が指名される。その他にも研修主任(研修部)や進路指導主任(進路指導部)や総務部を置くが、基本的に校長・教頭は、教務主任(高校は教務部長)や生活指導主任(高校は生徒指導部長)とタッグを組んで学事を進めるのである。
もし、この定義をもう少し長くしてよければ、学習習慣と生活習慣をつける目的「Why?」を明示した方がいいだろう。文科省が好んで用いる言葉を使えば、「生きる力」をつけるため、ということになる。
「学校とは、『生きる力』をつけるために良い学習習慣と生活習慣をつける装置」
である。しかし、「生きる力」をつけるって曖昧過ぎるという指摘もあるはずだ。その通りだと思う。守備範囲が無限に広がってしまう感がある。