そんな矢先、チームの先輩・落合博満の「お前はバッターのほうが稼げるぞ」のアドバイスが決め手となり、翌84年から打者に転向。落合に師事しながら、86年に初めて100試合以上出場を実現すると、88年から92年にかけて当時のパ・リーグ記録、535試合連続フルイニング出場を達成するなど、打者として大輪の花を咲かせた。

 92年のエース・部坂俊之は、横手からの外角スライダーを武器とし、亜大4年の秋にMVP受賞後、東芝府中を経て、ドラフト4位で阪神入り。1年目の99年5月12日のヤクルト戦、「左(打者)が2人しかおらんからね」と野村克也監督から初先発のチャンスを与えられ、3回を1失点に抑えたが、毎回の被安打5と打ち込まれた。その後も左打者からスライダーの軌道が見えやすい欠点を克服できないまま、実働4年で0勝2敗に終わった。

 このほか、93年のエースで、関東学院大時代に1試合19奪三振のリーグ記録を樹立した白坂勝史(97年中日7位)や94年のエースで、法大時代に通算22勝の矢野英司(98年横浜2位)も、プロでは活躍できなかった。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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