阪神・部坂俊之(OP写真通信社)
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 横浜高は、松坂大輔をはじめ、プロでもエースとして活躍した好投手を多く輩出し、現在も涌井秀章、柳裕也(いずれも中日)、伊藤将司(阪神)らが第一線で頑張っている。その一方で、入団時に期待されながら、プロではほとんど実績を残せなかった者も何人かいる。

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 その一人が、1973年のセンバツ優勝投手で、翌74年のドラフトヤクルトに1位指名された永川英植だ。

 恩師・渡辺元智監督が「剛速球なら江川(卓)と互角」と評した本格派右腕は、銚子商・土屋正勝(中日1位)、土浦日大・工藤一彦(阪神2位)、鹿児島実・定岡正二(巨人1位)とともに“高校四天王”と並び称された。

 ドラフト当時、筆者は四天王の中で唯一永川がビール瓶の約3倍に相当する一升瓶にたとえられた記事を読んだ記憶があり、最も将来性を買われていることが窺えた。

「ヤクルトは好きなチーム。当たればいいなと思っていました」と相思相愛の指名を喜んだ永川は、76年のジュニアールスターで全イースタンの先発を務めるなど、2軍で経験を積み、3年目の77年7月に1軍初昇格をはたした。

「ファームで2勝3敗ともうひとつだったし、ピンときません」と本人は戸惑ったが、実は大阪遠征中に4人の選手が宿舎を抜け出して徹夜で麻雀をしていたことが広岡達朗監督の逆鱗にふれ、“懲罰降格”になったのと入れ替わりに、チャンスが舞い込んできたのだ。

 そして、長野で行われた7月10日の大洋戦、11対1とリードした9回にプロ初登板が実現する。21球すべてストレート勝負の永川は、1失点を記録したものの、田代富雄を遊ゴロに打ち取るなど、若手らしい生きの良い投球で存在をアピール。「これからどんどん投げたい」と目を輝かせた。

 だが、広岡監督は「あれではまだまだだ」と再登板のチャンスを与えず、これが現役5年間で、最初で最後の1軍登板となった。

 急性肝炎を患い、79年オフに契約保留選手になった悲運の剛腕は、回復しないまま翌80年4月25日に任意引退。家業の焼き肉店を継いだが、91年7月15日、肝臓がんのため、35歳の若さで他界した。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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