何でもありの理念の拾得は箒を跨いで、トイレットペーパーを手にした寒山を背におぶってハリー・ポッターに扮して空中を魔女のように飛んでいます。時にはロビンソン・クルーソーやドン・キホーテに扮して、したい放題やりたい放題、さらに変装の名人アルセーヌ・ルパンも登場します。
寒山拾得はどこにいるんや? 寒山拾得は釈迦の手の中の孫悟空、無辺なる宇宙至る所に万遍、出没します。寒山拾得、いや百得はもはや、どこにも存在し、どこにも存在しない非存在の存在者になってしまいました。お陰で僕から特定の様式が消滅してしまい、様式を喪失したそれこそ風来坊の放浪の画家になってしまいました。何でもありきの「わたくし」は私の自我捜しの旅に立つことになりましょうか? いやいや、「われ思う、故にわれ在り」なんてどこにも存在しません。宇宙に存在する他のすべてからさえ独立する存在として認めていた自分は一体どこへ行ったのでしょう。
理念である寒山拾得、いや私の場合は百得でしたが、社会的存在としての自分が現実の社会にどう対処すべきかの自覚さえもはやどこへやら、と想うとやはり寒山拾得は運命的な出合いであったのかな、なかったのかな、それほど大層でもないことを、大層に考えるのが、僕の中のピーターパン気質、大人になりたくない症候群、まあ、そんなことでしょうか。
一度、嵐山さんに会って、「コンセント抜いたか」の立体版のお話を聞かせていただきたいと思います。嵐山さんこそ寒山拾得で、飄々として今来たかと思うと、どこかへ行ってしまうその考え、行動の規準が世人とあまりにもかけ離れていて、つかみ所が無いコンセプト、間違いました、コンセントなんではないんでしょうか。嵐山さんの下駄履きはなかなか定まっており、従って悠然とした世間離れの印象を受けます。「週刊朝日」の休刊で、さてこのコンセントはどこのコンセントへ行くのでしょうか。
そうそう、嵐山さんは井伏鱒二の「寒山拾得」に触れておられます。ところが井伏さんは寒山拾得の持ち物を間違って書いておられます。まあ、このいい加減さが井伏さんらしく、また寒山拾得的でもあります。どうせ架空の人物です。どうだっていいんです。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年5月19日号