戦国時代を己の頭脳で生き抜き活躍した軍師たちは、数多くの小説やドラマなどの題材となっている。竹中半兵衛、山本勘助、直江兼続などや、「戦国最強のナンバー2」として今年の大河ドラマの主人公にもなっている黒田官兵衛が有名だ。
そんな軍師の中でも、隠れた戦国の名軍師として今後注目を集めそうなのが「江口正吉」。信長五大将で「米のように欠かせぬ男」と言われた智将の丹羽長秀と、その子である丹羽長重に仕え、さまざまな面から丹羽家を支えた人物として知られている。
そんな江口正吉について以下に紹介。
■武勇も持った軍師・ 江口正吉
丹羽長秀の家臣として、最初に歴史に登場する江口正吉。清洲会議の織田家四宿老合議の結果、丹羽家の京奉行を任されたことや、若くして若狭国吉城代になったことなど、若い頃から重用されていたことがうかがい知れる。
武勇にも優れ、織田信長と浅井長政の「小谷城の戦い」では、高所から戦いを見ていた羽柴秀吉、柴田勝家らが、茜色の弓袋の指物をした目覚ましい働きをする武者を指して「あれは誰だろう?」と首をかしげる中、信長が「あれは丹羽家の江口伝次郎(正吉の幼名)であろう」と言い当て、その武勇を褒め、自らの笄を与えたという逸話を持つ。
■御家の没落、そして復活!
江口正吉が仕えた丹羽長秀は、軍事だけでなく安土城建設への貢献など内政面でも信長を大いに支え、本能寺の変で信長が討たれた後は、秀吉を支持し123万石の大名までのぼりつめる。しかし丹羽長秀の死後、大きすぎる丹羽氏の勢力を削ぐために秀吉により4万石への大減封が行われる。