人生に座右の銘はいらない (朝日新聞出版より好評発売中)
「大変なトラブルに巻き込まれた!」
生まれた瞬間喋れたとしたら僕はそう言うだろう。
せっかく子宮の中でなんの問題もなく生きて行けたのに、いきなり、知らない人に囲まれて「難産でしたけど無事生まれましたよ!」なんて、言われたら「いや、そんな危険だったの? だったら産まないでほしい!」というのが、正直な感想ではなかろうか。
赤ちゃんの主張は通らない。「もう、半年子宮の中にいたいんですけど」なんて一切言えない。いつも一方的に危険をはらんだ「世間」に無理やり「取り出される」のである。
そりゃあ、泣きわめいて当然である。それでも初めは「あ、乳に吸い付いてさえいればいいのだ」と、一瞬はおのれのポジションに安心するのだが、やがて、若干涙目で自分にしきりに触ろうとしたり触れなかったりする人間、「父親」が現れ、赤ちゃんの気持ちがぶれる。この父親と名乗る人間は、乳も出ないのに、なぜ自分の周りにまとわりつくのか。第2のトラブル発生である。この人間が、自分というものの発生にあたって大いに一役買ったものであることを知るのは、ずいぶん後である。赤ちゃんにとって、初めて触れる「世間」は父親なのである。
過度に触ってくる父親。自分を畏怖し、遠巻きに見る父親。まったく無関心な父親も。初めからいない父親。この「いろいろ」な感じがいかにも「世間」だ。それでも、赤ちゃんを人は強引に父に「引き合わせたがる」のである。
ここから人生の不条理は始まっているといってもいいのではないだろうか?
なにしろ、何度も言うが、乳が出ないのである。にもかかわらず、「親面」をするのである。動物には父はいない。ほとんどの動物の雄は、雌の体内に射精するだけである。
父という概念を作り上げたのは、人間だけなのである。
この、父の存在が、「世間」という本来は存在しないはずのものを地球上に作り上げ、それが人間の在りかたをややこしくさせているのではないか?
射精しっぱなしの動物の雄から見たら、なにをやっておるんだという話になる。
僕の中にはこの「動物目線」というものが、なぜか、ずいぶん昔からある。なので、前述のようなことをうだうだ考え、「早くお父さんになりたいんです」などという人の気持ちが、まったくわからないという、僕なりの悲劇を常に感じながら生きている。
世間にうまく染まれない。50歳にして、いまだ、その染まれなさになれず、歌ったり踊ったり、笛を吹いたりしてしのぎを得ている。まっとうじゃない。こんな僕に、この本『人生に座右の銘はいらない』では、むしろまっとうに生きている人たちが様々な相談を寄せている。
「人間目線」には「動物目線」のものになにかを乞うなりの、苦難があるのだ。恋に悩み、仕事に悩み、セックスに悩み、容姿に悩み……。
そんな様々な悩みに、僕は「僕なんかのくせに」必死に答えている。もちろん、お金をもらっているからだが、それ以前に、彼らの悩みに答えをひねり出す作業がおもしろい。答えれば答えるほど、自分の「動物目線」がくっきりしてくるからだ。
いや、それ以前の「赤ちゃん目線」と言い換えてもいい。
ほとんどの相談が、結論としては、子宮の外に出るのは仕方ないとして、家の外に出なきゃあいいじゃない。で、終わってしまうのだ。ネットがあればたいがいのことは事足りる。外に出れば、放射能や公害の危機、人とのいざこざ。トラブルしか待ってない、といっても過言でないからこそ、皆が「外出」の悩みを抱えているのだ。ならば、これほど、引きこもっているのに適した時代はないんじゃあないか。しかし、しょせん、人は外出したがるものだ。「うきうき」するもの。
なぜか? そこに、僕は「赤ちゃん目線」以前の「精子目線」を感じてしまうのだ。精子は、多分、かなり「うきうき」しながら外出しますからね。そのほとんどがトラブルに巻き込まれて死ぬだけなのに。精子のモチベーションそのものが、トラブルの源なのである。「うきうき」を期待しなければ、トラブルは回避できるのである。
自分の中の「卵子目線」に気づければ、と思う。
待ってりゃあいいんだから。卵子は待つことに苦痛を感じないし、待っていること自体が「うきうき」なのだから。
そんな保険をかけてなきゃいられないほど、実は、僕という人間はとにかく「困難」な人間なのです。
ほんと、よくみんな、平気で相談してくるな、と思いますよ! 大丈夫ですか!?