1975年、昭和天皇訪米。馬車の後ろで屈強なSPが守る
1975年、昭和天皇訪米。馬車の後ろで屈強なSPが守る

 到着してすぐに、歓迎市民が出迎える中で、昭和天皇と香淳皇后が馬車に乗ってのパレードがあった。屋根のないオープン型の馬車で、後部には米国のSPが2人立って警護に当たっていた。

 馬車に乗ったのは両陛下と側近だ。SPはすぐに、側近にこうささやいたという。

「たとえば沿道から手榴(りゅう)弾のようなものが投げ込まれたら、すぐに沿道に投げ返してください」

 そんなことをしたら市民に犠牲が出る、と側近が答えると、SPはこう返した。

「構いません。市民の犠牲は致し方ない」

 一方で王室を持つ欧州の国の守り方は少し違う。

 たとえば、平成の皇室が10年目に差しかかった98年の英国訪問。ロンドンの大通りザ・マル。バッキンガム宮殿に続く800メートルの沿道は、天皇、皇后両陛下のパレードを待つ日英市民らで埋め尽くされた。さらに、旧日本軍の元捕虜団体も沿道に並んだ。両陛下の馬車に背を向け、シュプレヒコールを浴びせた。 

 しかし、テロなどの事件は起こらなかった。

それは、王室が盾となって両陛下を守ったからだ。

 馬車のパレードの先頭はエリザベス女王と明仁天皇、2台目の馬車には夫のフィリップ殿下と皇后美智子さまが乗る形を取った。そして馬車の周囲には、大勢の近衛騎馬隊が整然と隊列を組み、日本の皇室も守ったのだ。

女王は自ら平成の両陛下の「盾」に

 2000年に訪問したオランダでも王室が両陛下の盾となった。

 5月23日。両陛下は、アムステルダムのダム広場にいた。広場中央に立つ第2次世界大戦の犠牲者の戦没者記念碑に献花をするためだ。

 2年前に訪問した英国よりもオランダの反日感情はより複雑だ。昭和天皇の大喪の礼でも、オランダ女王は国民感情に配慮し、欠席せざるを得なかったほどだ。

 数百年にわたりインドネシアを植民地としたオランダは、戦争捕虜となった4万人の兵士に加え、9万人の民間人が収容所に入れられた。慰安婦として働かされたと訴える女性らもいる。彼らはオランダに帰国しても、「植民地主義者」として冷たい視線を浴びせられ、政府からの補償金もわずか――そうした事情も反日感情をより高ぶらせていた。

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