沖縄のことが気になっていたのにはわけがある。4年ほど前、沖縄の青年と横浜で知り合い、別れた後も文通を続けていた。
「ぼくは群馬の山育ちだから、エメラルドブルーの海、サンゴ礁、白い砂浜なんて、まったくイメージが湧かないわけですよ。だから、沖縄には非常に興味があった。同時に金網に囲まれた米軍基地があって、すごい騒音で、なんて話も聞いていた。そのアンバランスさというか、ちぐはぐさ。それを実際にこの目で見てみたいと思った。そんな視点が最初からありましたね」
その後、小松さんは上京すると、東京・四谷に設立されたばかりの「現代写真研究所」に入学。本格的に写真を学んだ。
初めて沖縄を訪れたのは本土復帰からちょうど10年後の82年だった。
「当時は飛行機代が高かったし、宿代も考えると、とても自分の力では行けなかった。それで、ある雑誌の編集部に『沖縄に撮りに行ってみたい』と言ったら、『いいですよ』と、行かせてくれた。最初の2~3回はそんな感じでした」
■妙なやつがやってきた
沖縄の美しい自然や風土、食文化をカラーフィルムで写した一方、沖縄戦の傷跡や米軍基地、基地反対闘争、基地の中の暮らしなど、「負の遺産というべきもの」はモノクロで撮影した。
「ぼくはレンズ交換が嫌いだったから、カラーとモノクロ、それぞれのカメラに望遠と広角のレンズをつけた。だから、いつもカメラを4台くらい首から下げていた。いま思い返すと、若かったね(笑)」
当然のことながら、カメラをたくさんぶら下げた妙なやつがやってきた、と思われる。相手が米兵ならなおさらだ。
「最初は『何だ?』みたいな顔をされるんだけれど、1人だし、『まあ、いいか』みたいな」
基地の外であれば、撮影は問題ない。ところが、知らぬ間に米軍施設内に足を踏み入れてしまう場合があるという。
「北部演習場は米軍エリアを示す標識がないところが多い。この写真は、ものすごい音がしたので、国道から密林に続く細い道を入った。すると突然、ここに出た」
写真には2機の大型ヘリが低い空を舞い、地上にはヘルメットとヘッドセットを身に着けた5人の兵士が待機している。
「こんなときは車のエンジンをかけっぱなしにして、運転席のドアを開けて、いつでも逃げられる態勢で撮影するんです。彼らは気にしない様子でにっこり笑っていたよ。クローズアップもたくさん撮った。でもヘリから『そいつは何をやっているんだ!』みたいな怒鳴り声が聞こえたから、これはヤバいな、と思って、引き上げた。結構、友だちが捕まったりしていたからね」