「国民式典」から追われたかたちの勝共連合は今年の2月11日は奉祝会主催の明治公園での「紀元節祭」に参加した。
こうした勝共連合の動きに対し、奥原氏は「おかしいねえ」という。
たとえば勝共連合と友好関係にある統一教会幹部だった副島嘉和氏は、その手記(『文藝者秋』84年7月号)のなかで、天皇が文鮮明氏に拝跪する儀式があるとのべている。
韓国が「神の国」で、日本はその「僕(しもべ)」だという教義からは、こちらの方が当然の帰結なのだ。
たしかに天皇元首化を主張する神社本庁などと勝共連合の主張とは矛盾している。みずからの基盤を広げ、そこで市民権を得ることができるなら、本来は矛盾する天皇賛美であろうと何であろうとかまわないのであろうが、それにしても、いささか度が過ぎる。
勝共連合は昨年の天皇在位60年パレードに積極的に参加するなど、最近、天皇制への傾斜を深めている。
しかし、天皇制へ近寄れば近寄るほど疑惑の目が厳しくなっていることも事実だ。神社本庁の関係者の中にも「どこまで一緒にやれるかわからない」という声は少なくない。
さらに、86年の衆参同日選挙以降、自民党内でも勝共連合への反発を示す国会議員が出はじめている。
サタンの国の神武建国を
祝う自家撞着
それはダブル選挙時、勝共連合が150人の候補者を推薦、応援し、134人が当選したことが背景になっている。同一選挙区内の自民党候補にとって、勝共連合の組織的動員による選挙活動が“脅威”ともなり、反感を覚えるというのだ。
さらに、国家秘密法制定を推進しようという議員のなかで、運動の足腰が勝共連合であることに対し、「だから熱心になれない」という意見も生じている。
そして、これらの底流には、声高には語られないが、“異国生まれ”の政治団体が、日本の伝統、日本の政治に深く介入することへの不信が横たわっている。
来年、政府・自民党主導の国民式典に対し、神社本庁など奉祝会側は「神武建国」を正面からうたった独自の式典をぶつける可能性がある。
国民式典からはじき出された勝共連合は奉祝会側にいっそうすり寄らざるをえまい。しかし、戦前に逆戻りしたような復古調の中で、韓国を神の国とする勝共連合は生き延びることができるだろうか。
統一教会の教理解説書『原理講論』は「日本は代々、天照大神を崇拝してきた国として、更に、全体主義国家として、再臨期に当たっており、また、以下に論述するようにその当時、韓国のキリスト教を過酷に迫害した国であった。(中略)サタン側の国家なのである」と述べているのである。
(フリージャーナリスト・有田芳生)
※「朝日ジャーナル」1987年2月27日号から