もともと、亀裂のきっかけとなったのが82年11月の中曽根内閣の誕生であった。

 建国記念式典は世論の賛否両論のなか、78年には総理府、81年に文部省、83年に自治省、85年に外務省と後援をとりつけ、実質的な国家行事化がはかられてきた。

 そして「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根首相は、就任当時から歴代首相としてはじめての式典参加を強く望んでいた。

 ところが「建国記念の日奉祝運営委員会」(黛敏郎委員長)が催す式典は、紀元節を前面に出したあまりにも復古的なものであったため、中曽根首相でさえ容易に参加することはできなかった。

「奉祝運営委員会」の式典は、神社本庁、国際勝共連合、生長の家などが前面に出、紀元節の歌の斉唱、神武天皇陵遥拝が行われ、「天皇陛下万歳」「八紘一字」が強調されていたからだ。

 そのため中曽根首相は、建国記念式典には「祝電」を打つにとどめていた。同時に首相の式典参加を可能にする条件づくりを、自民党の中山正暉国民運動本部長らに命じる。

 その条件とは、主催団体の変更、式典内容の手直しなどであった。

 84年11月27日、自民党国民運動本部主催の「式典準備会」が「奉祝運営委員会」代表もふくめて開かれた。そこでは中山氏から総理出席の条件を整えるため式典から「政治色・宗教色を排する」ことが説明された。

 さらに12月4日、神社本庁、日本を守る会、日本郷友連盟、新日本協議会、国際勝共連合、生長の家などの出席のもと「奉祝運営委員会」役員会が開かれた。そこに出席した中山氏は、式典内容の変更などについてこう主張した。

「天皇を中心とした建国記念の日を否定するグループに攻撃の材料を与えない事だと思います。急がば回れと申すように、2月11日というものを定着させて、やがて新しい日本国民が誕生した時、2月11日とは一体何だったのだろうかという事を思い返していただき、やがて日本が安定する国になった時、神武建国の意義をよみがえらすときがやって来る」

 この中山氏の発言に対して「首相の出席のために内容をうすめることはできない」「不敬だ」といった罵声が浴びせられた。

 そしてこうした反対意見をおし切り12月6日、「建国記念の日を祝う会」が、中曽根ブレーンの1人である五島昇氏を会長として発足した。「祝う会」の財団法人化はこの時から密かに計画されている。

 年があけた85年1月29日、中曽根首相は、参議院本会議で、「ぜひ式典に参加したいと熱望している」と、はじめての首相参加に意欲をみせた。

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