翌30日、「祝う会」の第1回運営委員会が開かれる。ここで、それまで強硬な態度をとっていた副島広之明治神宮権宮司は「別の集会は開かず、いっしょにやっていく」と表明し、一連の内紛はひとまず収束した。
こうした経過をたどって、中曽根首相は歴代首相のなかではじめて85年2月11日の建国式典に参加することができた。
それから1年後の86年3月、「建国記念の日を祝う会」の財団法人化が、ほとんどの関係者に知らされないまま「国民の祝日を祝う会」として強行された。
この一方的なやり方に対し、「建国記念の日奉祝会」(会長・黒神直久神社本庁総長)と「祝運営委員会」(黛敏郎委員長)は強い反発を示し、今年は「静観」を決め込んで、従来通り明治公園での「紀元節祭」を催した。
天皇制に近寄る勝共
強まる疑惑の目
政府・自民党と神社本庁などとの対立は、双方にすり寄ろうとしていた国際勝共連合の立場を微妙なところに追い込んだ。「建国記念の日奉祝会」の有力メンバーとして加わっていた勝共連合は、4、5年前まで式典では常に数100人の動員を行ってきた。が、85年からは、中曽根首相の指示で式典の性格や構成団体が変わったのをきっかけに、組織動員としてでなく、自民党下部組織の動員割りあての枠内で参加するにとどまった。
そして、今年の式典ではついに「勝共連合から組織動員はなかった」(奥原常務理事)という。
奥原氏自身、勝共連合とのかかわりを「世界平和教授アカデミーの会員になった覚えはない。名前を勝手に使っているだけでしょう。会合に出たこともありません」と否定した。
奥原氏といえば、憲法「改正」を目的とする「日本を守る国民会議」の結成発起人やスパイ防止法制定促進国民会議運営委員であるとともに、勝共連合のパンフレットなどによると、統一教会の文鮮明教祖が提唱した世界平和教授アカデミー理事だとされている。そして、別のパンフレット『勝共連合案内』では「応援しています」という声を寄せ、勝共連合の友好紙である世界日報社から『世界の機密保護法』を出版しているように勝共連合に非常に近いとされてきた。
奥原氏は、東京・立川市議選での選挙妨害裁判でも勝共連合側の代理人となっていた。「祝日を祝う会」の事務局ともなっている東京・千代田区の奥原氏のオフィスでは、定期的に裁判の対策会議が行われていたが、いまでは全く行われなくなったらしい。
これは、建国記念式典を国民的行事と装い、それを定着させ国家行事として完成させるため、勝共連合という反共団体のカラーを式典としても奥原氏としても一掃する必要があったのではないか。