政府は、国内の政治に加え、諸外国と軍事や通商、領土問題などを交渉する「ハード」な面を担う。一方で、王室は、国内外の相手と長年かけて信頼関係を築くという「ソフト」な手法で、国と国民に尽くしてきました。
そういった女王の地道な積み重ねが、多くの成果を上げてきました。
大きな成果の一つは、79年にザンビアで催された英連邦諸国の首脳会議です。人脈を生かしてアフリカに関心の低いサッチャー首相とアフリカ各国の首脳を仲介し、「ジンバブエ」の誕生につなげた。
女王は政権の手前、表立った動きはできませんでしたが、90年、アフリカの反アパルトヘイト(人種隔離)の指導者だったネルソン・マンデラ氏の釈放や、アパルトヘイト政策の廃止にも貢献しています。
1977年、在位25年を祝う「シルバー・ジュビリー」は大成功をおさめました。その一方で、国民との信頼を維持するのに苦労した時期もあります。
当時の英国は、テロも頻発していた。さらに、アン王女の誘拐未遂事件など社会情勢が不安定でした。祝賀行事に反対する声も出るなかで、女王は「国民を盛り上げるのが私の役目」と覚悟を見せて大成功に導きます。
「国民から信頼されている」
と、女王は安心してしまったのでしょう。この成功が、女王の慢心を呼ぶことにつながりました。
80年代のサッチャー革命で景気も回復した。経済は繁栄し、国民からの支持もあると、20年もの間、国民との信頼関係を構築する努力を怠ったのです。
ふたを開けると、サッチャー政権で競争社会に放り込まれた英国は、貧富の差を拡大させていた。貧困層は、王室や貴族に対する反感を募らせたのです。
そうした中で英王室を襲ったのが、97年のダイアナ元妃の死去です。
このとき、女王は夏期休暇でバルモラル城に滞在中だった。マスコミから15歳と13歳の王子を守る意味もあり、城にこもり、追悼の言葉を出さなかった。
ダイアナ元妃はすでに王室を出ており、当時としては通常の対応でした。しかし、国民の目には「冷たい態度」と映った。女王の判断が裏目に出たわけです。
国民は不満を持ち、タブロイド紙も王室を批判した。ロンドンに戻った女王が目にしたのは、花束に囲まれた宮殿でした。
女王はBBCテレビで弔意を延べ、翌日の葬式では棺を見送った。
これを「女王の敗北」と捉える意見もありますが、背景はもう少し複雑です。