――なるほど、とても分かりやすい構図ですね。
会社が中小企業から大会社に成長していく過程で、番頭のような存在が邪魔になっていくのは、昔も今も変わりません。それが秀長ならまだしも、敵対していた家康に取って代わられてしまうわけですから、三成ら奉行衆にとっては最悪です。そういう意味では、この戦いは大勢力同士がぶつかり合う天下分け目の決戦ではなく、豊臣政権内の主導権争いです。それゆえ政争部分も含め、「慶長の政変」といった名称に変えてほしいですね。
――では、関ヶ原の戦いで、西軍が破れてしまった原因は何ですか。
一つ目は西軍陣営が長期戦を想定していたこと。二つ目は豊臣家中と毛利家中の思惑が初めから乖離していたことです。輝元は豊臣政権の安定化よりも、自領拡大や自らが政権内の存在感を増すこと、すなわち家康に取って代わることを目指していたわけですから、齟齬を来すのは当然です。そして三つ目が、豊臣政権の核が幼い秀頼では、家康の求心力にはかなわないということです。それを考えれば、あのタイミングで家康に挑んだのは、結果論ではなく無謀でした。よしんば長期戦に徹したいのなら、家康率いる会津征討軍が上杉勢との戦いに突入し、家康らが会津の地に足止めされてから挙兵しても遅くはなかったはずです。
――いわゆる挙兵のタイミングですね。
そうです。西軍が挙兵する場合、尾張清須城主の福島正則が確実に味方しないと危険ですね。清須城を最前線とし、東から岐阜城、大垣城、玉城、佐和山城、そして大坂城という縦深陣を築き、長良川、木曽川、揖斐川といった大河川を盾にして長期戦に突入する以外、西軍に勝ち目はなかったはずです。戦というのは、こうした縦軸と横軸をいかに築くかなのです。
縦軸と呼んでいるのは補給線、いわゆる兵站ですね。横軸というのは、敵の進行速度を遅くする河川などの障害です。西軍はこうした地形を考慮し、攻防兼備の態勢を築いていたのですが、福島正則が東軍に付いてしまい、織田秀信が岐阜城で簡単に敗れ、家康がやってくるのが予想よりも早く、さらに小早川秀秋が松尾山城に入ってしまうことで、すべてが破綻するのです。