
その半年後、田中被告は、またも進藤さんのもとにやってきた。
「九州に帰るから金を貸してほしい」
申し訳なさそうな態度ではあった。
「連絡もしてこない人間に、何度も金は貸せません。ただ、僕もそこまで鬼にはなれないので、近所の中華料理屋に連れて行ってご飯を食べさせました。どこでなにをしていたのか知りませんが、よほど空腹だったのでしょう。がばがば食べていましたよ」
進藤さんは500円硬貨を渡し、バスで市役所に行って生活保護の手続きをとるように伝えた。
だが、やはりというべきか、その後は音信不通に……。
8年ほどの月日が過ぎたころ、福岡県と鹿児島県のホテルで子ども3人の遺体が見つかった事件の容疑者として、田中被告が逮捕された。実子を殺害したホテルには田中被告が書いた遺書が残され、無理心中を図ろうとした末の犯行だった。田中被告はホテルの4階から飛び降りたが、一命をとりとめ子どもの後を追えなかった。
どれだけ本気だったかは定かでないが、一度は更生を目指した田中被告が凶悪事件の容疑者になった。進藤さんはクリスチャンである妻とともに、福岡へ面会に行った。
「生きていてもしょうがない」
「死にたい」
再会した田中被告の表情はうつろで、その言葉には、自らが犯した罪と向き合う姿勢はなかった。
進藤さんは問うた。
「で? 死んでどうするんだ?」
「……」
田中被告の答えはなかった。
進藤さんは妻とともに面会や手紙のやりとりを重ね、聖書を説き、田中被告に問い続けた。
「殺した子どもたちとあの世で再会したとき、何も変わっていない父がそこにいるのか。犯した罪を見つめ、悔い改め、生まれ変わった父がそこにいるのか」
「死刑になってすべてを終わりにしたいと願ったり、罪から目をそらしたま刑務所で過ごすことを償いとは呼ばない」
進藤さんによると、田中被告は幼少期から両親の愛情に恵まれなかった。父からは日常的に暴力を受け、母はそれを止めなかった。中学に入ると荒れた生活を送るようになり、両親はその後自殺した。最初の妻の父が暴力団構成員で、その父に誘われて組に入った。