退院してからも、体は思うように動かなかった。担任の先生が迎えに来てくれて、抱えられるようにして登校したこともあるが、教室に入るとまた倒れてしまう。何とかしようと思えば思うほど、どんどん悪くなる。その後も病院通いをしながら、登校しては倒れる、ということを繰り返した。医師の診断は、「適応障害」だった。
仲のよかった友人たちは、だんだんと離れて行った。あんなに自分に期待してくれていたサッカー部の監督にも避けられているように感じた。「そっとしておこう、サッカーのことは忘れさせてあげよう」という配慮だったのかもしれないが、誠さんにはわからなかった。
「捨てられたように感じたんです。どうして一緒にいてくれないんだろう、どうして助けてくれないんだろうと寂しかった」
両親も気落ちしていたという。母親はしばらく休職し、そばにいてくれることになった。父親は関心がないように見えた。
■「2年は学校に行けないよ」と告げられた
一度、精神科の病院で暴れたことがある。
「僕が行かないと、ゴールキーパーがいないんだ! 早く戻らせてくれよ! 学校に行かせてくれよ!」
泣き叫び、暴れる誠さんに医師はこう告げた。
「君は少なくともあと2年以上は学校に戻れない。2年は治らないよ」
ショックだった。医師に対して怒りがわき、殴ってやろうかとも思った。しかし本当は心のどこかで、自分もそんな気がしていたという。
再び、入院生活になった。ちょうどコロナ禍になり、やがて家族も病室に入れなくなった。人と話をする機会が減り、外に出て運動することもできなくなり、症状が悪化した。
数週間後に退院し、担任と相談した結果、高校は中退して通信制の高校に入ることにしたが、しばらくするとまた体が動かなくなった。
それからも、少し良くなったかなと思うと、体が動かなくなったり過呼吸になってまた行けなくなる。休んでしまったことに対する罪悪感で「次こそは行かないといけない」と思ってしまうと、さらに不安になり症状が悪化する、という悪循環だった。
サッカーもできない。勉強もできない。学校にもいけない。前に進もうとすると、体が固まる。
「もう、どうでもいい」
誠さんは、家の中に引きこもるようになった。