お今は琵琶湖の沖の島に流され、やがて殺された(一説には自決したともいう)。
ほんとうにお今が富子の子を呪詛したかどうかは謎である。あるいは、富子が自分の不幸を逆手にとって、デッチあげのデマを流したのかもしれない。とすれば、四年間の女の戦いの中で、彼女は、あっぱれお今をしのぐしたたかさを身につけたことになる。
以来彼女は正夫人としてがっちりと権力の座につくのだが、残念ながら、男の子を産むチャンスがめぐって来なかった。そして五年後、とうとう義政は僧侶になっていた弟の義視を還俗させてあとつぎにする。
義視はこのときかなりあとつぎになることをしぶったようだ。それを義政は、
「もし自分に男の子が生まれてもあとつぎにはしないから」
と約束して引っ張りだした。
と、この話をきいておかしいと思われないだろうか。当時義政は二十九、富子は二十五歳。まだまだあきらめるには早すぎる年ごろなのに……。余り知られていないが、じつは、義政の側室の一人がこの前後に男の子を産んでいるのだ。
――くやしいっ。あんな女の産んだ子に、将軍をとられるなんて!
嫉妬に狂った富子の窮余の一策――と私は見ている。
ところが、何たる皮肉であろう。義視があとつぎにきまったあと、思いがけなく彼女が妊娠する。そして坊主頭の義視の髪が生えそろって元服の式をあげた三日後に生まれたのは、男の子だった。後の義尚である。
――シマッタ、シマッタ!
彼女は地団駄ふんだに違いない。以来彼女はわが子を将軍につけるべく狂奔する。この数年後応仁の乱が起こったのも、じつはそのせいだともいわれている。これには多くの大名の複雑な利害がからんでいるから一概にそうとはいえないが、富子がそれを利用しようとしたのは事実だし、結果においては、たしかに義視は追いだされ、富子の子義尚が将軍になってしまった。
富子がわが子義尚を将軍にしようとした奮闘ぶりは、今の教育ママの受験作戦どころの騒ぎではない。
ではなぜ、彼女はそんなにやっきとなったのか。夫の義政がいっこうに頼りにならなかったからだ。義政は当時の一流文化人だが、将軍としての政治能力はゼロだった。
「あなた、しっかりして下さいよ。義尚が将軍になれるかどうかの境目じゃありませんか」
富子がやきもきしても、
「ああ、ふむ、ふむ……」
などといって酒を飲んでいる。
――夫はあてにならない!
がぜん富子はツヨくなる。このあたり、ちょっと現代の女性に似たオモムキである。