立教大が強かったのは、指導力もあったが、高校で活躍した逸材が集まったことも大きい。55年の立教大バスケットボール部入部者について、当時の同大学4年生、荒井洵哉氏、加瀬正巳氏、東京教育大コーチの吉井四郎氏がこう語っている。
「荒井 僕らが4年の時の1年生が、あの時、日本の50何人ですかね。54、55人いて、それが各地方のトップクラスが全部入っていた。
加瀬 あの時、高校界の上から数えて13人全部がいた。
(略)
吉井 大学、実業団を含めて、その当時のチームでは相対的に、人の能力からいったら、死ぬまでに1回くらいこんなチームを持ってみたいなという感じのチームだったね」(『立教大学バスケットボール部創部六〇周年記念誌』1985年)
なるほど、オリンピック日本代表が「立教中心のメンバー」となるわけだ。まだ、実業団バスケットボールチームが力をつける前で、バスケットボールは大学がリードしていた時代である。
なかでも55年入学組の奈良節雄氏の体力、技術は突出しており、56年メルボルン大会のあと60年、64年と3大会続けて出場した。奈良氏は、日本バスケットボール史上唯一、オリンピックに3回出場した選手となる。立教大時代の奈良氏について、大学新聞でこう紹介されている。
「立大に入学してわずか二年。チーム中一番若く十九才で代表に選ばれた幸運児だが、今日の栄冠も中学時代からつちかわれていたのだ。非常に真面目な選手で前田コーチにいわせると、『若いが日本人ばなれしたバネと当りをもち外国人の間でもひけをとらない。』そうだ」(立教大学新聞、1956年10月28日)
他の競技を見てみよう。
前述の全国制覇の数ではバドミントンがもっとも多かった。
53年から59年までの7連覇を含め、日本一は9回を数える。大学新聞はこう胸を張った。
「文句なしに日本一のチームである」(1956年12月5日)
「現在本学スポーツの花形中の花形であり、日本バドミントン界の重鎮である」(1957年12月10日)。