サッカーは全国優勝1回、準優勝3回。バドミントンほどハデさはないが、オリンピック代表として活躍した名選手を生んだ。横山謙三、鈴木良三、渡辺正の3氏は64年東京大会、68年メキシコ大会に出場しており、メキシコ大会では銅メダルを獲得した。このときのメンバーに釜本邦茂氏がいる。鈴木氏は埼玉県立浦和西高校時代に全国優勝を果たしており、横山氏はのちに日本代表監督をつとめた。
69年、立教大は天皇杯に出場して準優勝となった。これ以降、大学チームは天皇杯決勝に進んでいない(大学チームの天皇杯優勝は66年の早稲田大以降はなし)。
立教大出身のアスリートはオリンピックで銅以上のメダルをとったことがあるだろうか。戦前までさかのぼると、金、銀、銅のメダリストがいた。
36年ベルリン大会の競泳で新井茂雄氏は金と銅、田口正治氏は金、鵜藤俊平氏は銀と銅を獲得した。3人とも在学生だった。
立教大水泳部は、ベルリン大会の水泳日本代表のメンバーについてこう綴っている。
「男子競泳22名の中に、立大から田口正治、新井茂雄、鶴岡栄、鵜藤俊平、本田惣一郎、それに、この春卒業した根上博の6名が選ばれた。また、水球に田野耕清が入り、7名の多くを数えた。競泳の代表6名には早大が同じく6名、慶大4名、明大2名、日大2名と続く。まさに立教は、日本水泳界のリーダーの地位に在り、特に、自由形陣は未曾有の最強チームであった」(立教大水泳部旧ウェブサイト「立教大学体育会水泳部の歴史」)
立教大がスポーツにおいて「日本一」「重鎮」「リーダーの地位」「未曾有の最強」となり得たのは、スポーツ推薦制度で各競技のトップクラスの選手を受け入れ、しっかり育てたからだ。
しかし、スポーツ推薦制度は60年代後半、学内で反対する声が高まって、廃止する方向が示された。大学はこう記している。
「昭和45年になって、体育会各部に激震が走るような出来事が起きた。ついに学校は、推薦選抜制度を廃止する決定をした。水泳部はもとより、野球部、バスケット部、その他の部も部員の減少を来して低迷していく」(同前)。