桶狭間古戦場公園にある織田信長(左)と今川義元の銅像
桶狭間古戦場公園にある織田信長(左)と今川義元の銅像
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 幼年期・青年期の家康は生家である松平氏が凋落し、隣国の駿河・尾張の争いに翻弄された結果、人質として決して本意とはいえない日々を過ごすことになる。運命が変わる転機となったのが、桶狭間の戦いだった。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、大河ドラマどうする家康』の時代考証を担当する小和田哲男さんが、家康、若き日の危機と決断に迫った。(全3回の2回目)

【チャート】家康が人質となった複雑な過程をひとまとめ

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 清康が殺されたとき、跡継ぎの広忠はまだ元服前の十歳だった。これを好機とみた桜井松平信定が岡崎城を占拠したため、広忠は各地を転々とし、ようやく、天文八年(1539)頃、信定の死去を受け、足利一門・吉良持広の援助によって、岡崎城へ帰還し、元服にあたって吉良持広の一字が与えられて広忠と名乗ることになった。

 この頃になると、松平氏の弱体化をみた尾張の織田信秀が三河侵攻に動きはじめ、広忠の後見役になっていた叔父・三木松平信孝も、岡崎松平単独での自立は難しいと判断し、尾張国知多郡の国衆で緒川城(愛知県知多郡東浦町)の城主・水野忠政との同盟を働きかけている。その結果、忠政の娘・於大が広忠に嫁ぎ、天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代が生まれた。

 ところが、その後、広忠の岡崎復帰に功のあった阿部定吉らと、三木松平信孝や重臣の酒井忠尚らが対立し、信孝追放のクーデターが起こる。さらに、天文十二年七月に水野忠政が亡くなり、跡を継いだ信元が今川方を離れ、織田方になったため、広忠は於大を離縁せざるをえない状況に追いつめられた。こうして、竹千代は数えわずか三歳で母と生き別れることになったのである。 その頃、三河には西から尾張の織田信秀が積極的な軍事行動を起こし、また、東からは駿河・遠江の今川義元が三河侵攻を開始しており、松平広忠としてはどちらかの傘の下に入らざるをえない状況となっていた。このあたりが国衆の宿命とでもいうべきところで、単独で生き残ることは不可能であった。

 これまでの通説では、そうした事態で、広忠は今川義元を頼る道を選び、義元に支援を要請した。義元から人質を出すよう要求され、わずか六歳の竹千代を人質に出すことにし、駿府へ向かわせた。天文十六年八月二日のことである。

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果たして「新説」の通りだったのか…