ところが、岡崎を出た竹千代一行が、途中、田原城(愛知県田原市)の戸田宗光(康光)・尭光父子が言葉巧みに舟で行く方が安全だと勧めたため、舟に乗ったところ、騙されてそのまま尾張に行き、織田信秀の人質になってしまったという。
そうした通説に対し、騙されて拉致されたのではなく、広忠が信秀と戦って負けたため、自ら竹千代を信秀の人質として差し出したとする新説が現れた。
これは、天文十六年と推定される九月二十二日付菩提心院日覚書状に、広忠が信秀に敗れて降参したということが書かれていることから導き出された新説である。ただ、日覚という僧が、その戦いの現場を見ていたわけではなく、伝聞をそのまま書状にしているので、果たして新説の通りだったのかについては、もう少し検討が必要ではないかと思われる。
ただ、いずれにしても、このとき竹千代は尾張に連行され、信秀の人質になっていたことは確かである。そして、竹千代が信秀の人質に取られている最中の天文十八年三月六日、岡崎城主の父・広忠が死んでしまった。一説には、近臣の岩松八弥に斬殺されたともいうが、病死説もあり、斬りつけられた傷が悪化して死んだという二つの説の折衷説もあり、この真相もよくわからない。このとき、広忠は二十四歳だった。
ここで、今川義元の軍師・太原雪斎が動いた。三河の安城城が信秀に占領され、そこに信秀の長男・信広が入っているのをたしかめ、安城城攻めに向かった。そのとき、「信広を殺すな、生け捕りにせよ」と命じており、生け捕りにした信広と竹千代との人質交換を成功させているのである。人質交換は天文十八年十一月、尾張の笠寺で行われ、竹千代はそのまま駿府に連れていかれることになった。
こうして竹千代は改めて今川義元の人質となったわけである。人質というと一般的には監視も厳しく、虐待といわないまでも苛められているという印象があるが、今川人質時代の竹千代はどちらかというと優遇された人質だった。その理由はいくつかあり、一つは義元の軍師・雪斎の教育を受けていたことであり、二つ目として、系図の上では義元の姪にあたる女性(瀬名姫、のちの築山殿)と結婚していること、そして三つ目、元服のとき、義元から“元”の一字を与えられ、はじめ元信、ついで元康と名乗っている点である。一門待遇であり、将来の重臣待遇であった。