ところが薄暗くなっても義元本隊が到着しないので、物見を出したところ、桶狭間あたりで今川方の兵が討たれているとの報告があり、噂が本当だったことを知った。
その頃には、あたりはもう暗くなっていて、元康は、「いま逃げ出すと落ち武者狩りにあうかもしれない」と、そのまま大高城に籠城している。普通ならば、あわてふためくところであるが、元康は落ちついて行動した。
すると夜中、水野信元の家臣が信元の伝言を伝えてきた。「そこにいると危ないので、三河に戻るように」とのことである。信元は元康の生母・於大の方の兄。元康は信元にとっては甥にあたる。伯父として忠告したことになる。
このとき元康は、その使者を大高城に抑留し、翌朝、明るくなって城を出て岡崎城を目指した。途中で今川の拠点の一つだった池鯉鮒城に立ち寄ろうとしたが、すでに織田方の手に落ちていた。さらに岡崎に至るには、桶狭間の戦い当日の豪雨で増水した矢作川が横たわっていた。元康たちは苦労して浅瀬を探し、川を渡ったという。
だが、無事に岡崎に戻ることはできたものの、岡崎城にはまだ今川の兵が残っていたので、近くの松平氏累代の菩提寺である大樹寺に入っている。そのとき、住職の登誉上人から「厭離穢土欣求浄土」の八文字を与えられたという。このあと、元康はこの八文字を旗印としているのである。
そのうちに岡崎城から今川の兵がいなくなったので、大樹寺から岡崎城に入っている。ここにおいて、元康は今川の配下から脱し、晴れて岡崎城主となったのである。
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋
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