■1位 天野康景 / 足軽を庇い、剛直を貫いた三河武士
忠臣の第1位は、3部門で満点の評価を受けた天野康景が選ばれた。
天野氏は三河国額田郡岩戸村を本拠地とする武士団で、祖父遠房は家康の祖父清康に、父景隆は家康の父広忠に仕えた、股肱の臣の家系である。
康景も家康が人質生活を送った駿河時代から近臣として仕えた。一向宗の信徒だったが、三河一向一揆の際には浄土宗に改宗して、一揆を討伐する側に立つ。代々の信仰よりも、代々の主従関係を優先させたのである。
その功績を認められ、三河統一時には、本多重次・高力清長と並び、三奉行の一人に任じられた。
所領の加増は緩やかだったが、近江国甲賀の地侍83騎の統率を任されるなど家康からの信任厚く、関東入国時には下総国内に3000石を与えられ、江戸町奉行も務めた。
慶長六年(1601)には駿河国のうち1万石を与えられ、天領(将軍家直轄領)2万石を預かる興国寺城城主に任ぜられるが、6年後に事件が起こる。
事の発端は城を修復するために集めていた竹木の窃盗事件にある。天野の足軽が窃盗犯と思しき公民(天領の農民)たちを見つけ、成敗したところ、代官は罪のない公民が殺害されたと上に報告。家康側近の本多正純から康景に対し、手を下した家臣を差し出すよう通達がきた。しかし康景は、「正しさを曲げて間違ったことに従うのは、自分の常の心がけと異なる」として、一族とともに興国寺城を放棄。幕府から改易処分を下された。
康景は自分の家臣とその証言を信じた。たとえ公民であろうと盗みは盗み。職務を忠実に果たした家臣を引き渡すことなど、家康の機嫌をどんなに損ねようが、三河武士の意地にかけて、できるはずはなかった。
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋