徳川家康は、関白秀吉に「私は殿下のように名物の茶器や名刀は持たないが、命を賭して仕えてくれる五百ほどの家臣が宝」と、控えめに誇ったという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、徳川家を支えた忠臣、猛将、智将などを、歴史学者の小和田泰経氏が採点。各武将の生き様と能力を解説している。今回は、「忠臣」で採点した。「犬のように忠節」と称賛された徳川の家臣たちの中で1位となったのは――。
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「忠臣は二君に仕えず」というのは江戸時代になってから奨励された概念で、生き馬の目を抜く戦国時代には、家臣から主君に見切りをつけて出奔したり、下克上におよんだりすることは珍しいことではなかった。
しかしそれだけに、家康麾下の家臣団の結束力の強さは異彩を放っていた。多くの戦国大名のなかでも、徳川軍団は三河一向一揆の最中を例外に、他へ寝返った者の少なさが際立っている。「人たらし」といえば、豊臣秀吉の専売特許のようにいわれがちだが、家康の人心掌握術もなかなかだった。“家康を裏切ることなく、命令に忠実ながら、間違っていると思えば諫言を恐れない。ただ従順なだけの者は論外で、課せられた役目を果たせないときは自死あるいは討ち死にして償う”。それが家康の生きた時代の家康にとっての忠臣像だった。
家康の忠臣とされる人物には、戦場の最前線で戦う者は少なく、本城の留守居や兵糧運搬の責任を負わせることが多い。
これには2つの理由が考えられる。1つは徳川軍団の拡大により、適材適所に人員を配置する余裕が生まれたため。合戦序盤の形勢を左右する先陣には、軍団で一、二を争う勇将か、手柄を欲する新参者を充てるのがよいとされ、忠義一徹の老臣は家康の身辺を固めるか後方勤務に専念させた。
もう1つは、妻子の生命を預け、将兵の命綱である兵糧の管理を任せるのに、信頼のおける老臣以上の適任者はないという発想による。