哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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英語の民間試験導入が延期されることになった。英語教育の専門家たちがこぞって反対していたこの制度になぜ文部科学省はあれほど固執したのか、わからないことが多すぎる。
わからないことの一つは文科省が文学作品を熟読したり、誤りのない英文を書くことよりも、英語で円滑に会話できる力の開発にのめり込んでいることである。流暢(りゅうちょう)にビジネストークができて、英文契約書がすらすら読める能力が何よりも優先するという英語教育観は産業界と民間の英語教育業者によって流布されてきた。だが、この人たちは自動翻訳機械の急速な発達についてどうお考えなのであろうか。
手のひらサイズの自動翻訳機がいまでは3万円台で買える。スマホにグーグル翻訳をダウンロードすれば、日常の用を便するには十分足りる。自動翻訳の専門家によれば、あと数年で機械翻訳の精度はさらに向上する。機械の単価も遠からず電卓並みになるだろう。みんながポケットに自動翻訳機(ドラえもんの「ほんやくコンニャク」である)を携行する時代が来る。そのとき、もう学校で英会話を学ぶ必要はなくなると自動翻訳の専門家は言う。むろん翻訳家や外交官などには引き続き高い英語運用能力が求められるだろうが、一般市民にはもうその必要がなくなる。「町で外国語で話しかけられた」ら、おもむろにポケットから機械を取り出せば済む。3桁の掛け算の答えを求められたときにおもむろに電卓を出すのと変わらない。
だが、「英語ができる日本人」の育成に熱意を示す文科省は、英会話能力開発そのものを不要にしかねないこの技術革新について一言のコメントもしたことがない。英語での円滑なコミュニケーションが全国民に必須だと思うなら、文科省はむしろ自動翻訳機械の精度向上と廉価化のために一臂(いっぴ)の力を貸すべきではあるまいか。
「外国語を学ぶとはどういうことか?」という根源的な問いを私たちにつきつけるこの技術の進化について何の反応もできない省庁が「国際的な経済競争」に「果敢に挑戦」していると言えるだろうか? それこそ文科省が「英語ができる日本人」に求めていることなのだが。
※AERA 2019年11月18日号