哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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日本の武道はすべて剣の理合(りあい)に基づいている。武道家として剣はたいせつに思っている。居合の稽古には幕末の備前のわりとしっかりしたものを使っている。ただ、私には「モノにこだわる」気質がない。若い頃からずっとそうだった。周りの男子はカメラとかバイクとか車とか時計とかオーディオとか、そういうメカニカルな金属製のものにはげしいこだわりを示したけれど、私はそのどれにも深い愛着を感じることができなかった。手元にたまたまあるものを使い、なくしたら「あ、なくした」、壊れたら「あ、壊れた」で終わりだった。
だから、愛剣もそれなりに丁寧に扱ってはいるけれど、特段のこだわりはない。人に言うと「そんな奴には剣を遣う資格がない」と叱られそうなので黙っていた。
先日、能楽師の安田登さんたちが主催している天籟(てんらい)能という催しにゲストで呼ばれた。能が「小鍛冶」だったので、川崎晶平さんという刀匠もゲストに招かれていた。刀匠という職業の方と会うのははじめてだった。出番前の楽屋で、川崎さんが打たれた新刀をすらりと抜いたのを見て、電撃に打たれたように物欲の虜となってしまった。その剣は売約済みということだったが、もう欲しくてたまらない。
「垂涎(すいぜん)」というのはこういう心的状態なのかとはじめて知った。諦め切れず、出番が終わった後に「僕にも刀を打ってください」とにじり寄ってお願いした。
私にとって剣は鑑賞用の美術品ではないし、殺傷用の利器でもない。剣を構えると「野生のエネルギー」が私の身体を通り抜けるのである。剣が私の身体を調え、どういうふうに身体を使えばよいのかを教えてくれる。剣には剣固有の生命の流れがある。それを遮断したり、屈曲させたりしないように、「剣のお邪魔にならないように」身体を使うことが私の理解するところの剣の操作である。その指示が明瞭な刀とそうではない刀がある。名刀と鈍刀の違いはおそらくその指南力の差にあるのだと思う。
川崎さんの鍛えた剣に強い指南力を感じて、私は身体が先に反応してしまった。齢(よわい)古希に迫ってかかる煩悩の虜となるとは、人生何があるかわからない。
※AERA 2018年10月1日号