お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の新連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
* * *
いわゆる「キラキラネーム」なるものが世間で取沙汰され始めたのはいつ頃からか。
私が子育てデビューしたのは2002年。娘の保育園入園に際し、そのタイミングで同世代の子供たちをまとめて確認することになる。でも、まだこんな状況ではなかった。その5年後次女が入園、更に、7年後には息子入園、段階的に年代別の「名前事情」をつぶさに見てきた感想を言えば、キラキラネーム=珍奇名は増え続けてきていると実感せざるを得ない。
しかし、今回私がここで書きたいのはキラキラネームのことではない。キラキラ化は名前に限ったことではないのである。それは子供が唄う歌にまで及んでいるのだ。
その前に「キラキラ化」とはどういうものか私なりに解釈してみよう。
「私は世界にただ一つ」
そういったものがベースにある現象を“キラキラ化”と言っているように思う。また、そういうものを私は“オンリーワン思想”とも呼んでいる。
「世界にたった一人の自分」という命題は大いに結構、非の打ちどころがない正論だ。人がどんな名前をつけようが結局はなんの問題もないし、古くから名前のモードは移ろっている。むしろ「太郎、花子」が珍しいわけで、世間はそのぐらいキラキラネームに溢れ、珍名デフレが常態化している。
しかし、保育園や小学校の唱歌までキラキラし出すとなると、どうもモヤモヤしてしまう。
簡単に言えば、ポップスが多い。しかもそれを保育園のかなり早い段階から彼ら彼女らは歌わされている。彼らがそれを選ぶことはない。大人たちがそれをあてがっているのだ。“胸を締め付けるような切なく甘~いポップス”を、である。
詞はまだいい。なぜかと言えば、昨今は街に溢れるポップスも大分道徳的だから。しかし選ぶ大人たちの「詞が分かる」が問題。表向きは道徳的でも、メロディーやリズムはめちゃくちゃ煽情的だったりしているのにそれはスルーしている。商業音楽とは「より大勢の感情を煽る仕掛け」を考え尽くしてきている分野だ。