旅順攻防の要地となった二百三高地=明治37(1904)年
旅順攻防の要地となった二百三高地=明治37(1904)年

 しかし、日本軍の作戦行動が戦術上正しかったから勝てたとは言えない。特に二百三高地をめぐる争奪戦は、日本兵たちの実際の戦い方があまりに尋常ではなかったから勝てただけだった。

 日本軍は旅順攻囲戦で約6万人もの死傷者を出し、二百三高地の奪取だけで約5000人の兵隊が死んでいった。当時でさえ、その犠牲の多さに乃木の指揮官としての能力が問われたほどだ。

 二百三高地での日本軍の戦術は妥当性を持っていたのか。私は中国に行ってその山の上に立ったことがある。よく日本兵はここに上がって来たなと、ぞっとした。上から姿が丸見えで、返り討ちに遭うに決まっている。それでも突撃を繰り返して死んでいった。そんな戦術に妥当性はないし、犠牲になった日本兵の姿は悲惨そのものだ。

 二百三高地の戦闘に限らず、日本軍は「とにかく勝てばいい、兵隊の命なんか知ったことか」としか見えない戦術を平気で用いる。海上戦でも、特定の艦船に集中砲火させた直後に反撃する囮(おとり)作戦を決行したりした。

 ロシア軍にとって、日本軍が人命を度外視して攻めてくることは想定外だった。つまり、無謀な作戦がロシア軍の士気を低下させた。それが日露戦争で日本軍が戦闘に勝てた大きな理由の一つだった。これを「裏読み」すると、軍事的に勝つためには、そんな常識外れの戦術を用いて相手を驚かせるしかなかったということだ。

 ある局面の戦闘に勝つためには何をやってもいいのか。今日のウクライナ戦争にも通じる大事な問いであり、歴史的視点から戦争の勝ち負けを考えるうえで重要なポイントである。

◎保阪正康(ほさか・まさやす)
1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部社会学科卒業。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。延べ4千人に及ぶ関係者の肉声を記録してきた。2004年、第52回菊池寛賞受賞。『昭和陸軍の研究』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)『昭和史の急所』『陰謀の日本近現代史』『歴史の予兆を読む』(共著)など著書多数。

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